夕顔

「日が、暮れる」
「うん・・・」
そうだね、と亘は頷いた。重い瞼がゆるゆると落ちてくる。
空を切れ切れに覆う雲が、夕日を浴びて薄紅に輝いている。雲の向こうにのぞく空は、まだ昼の気配を色濃く残した白藍を とどめている。
子どもたちが帰っていった後のさびしい公園を、並んで座ったベンチを、無言の亘と美鶴を、夕日があかく染めてゆく。
もうずいぶんもの間つないだままの美鶴の手は、いつしか温んでいた。触れたはじめは体がびくりと揺れてしまいそうなほ ど冷たかったというのに。事実、触れた瞬間美鶴は肩を揺らしていたから、その手の温度差は相当なものだったのだろうと思う。
けれど今は、接点がどこかわからないくらいに、ぬるまって溶け合っていた。それがひどく心地よくて、手放すことが出来ない。
美鶴も握り返そうとはしないものの、振り払おうとしないのは、同じように感じてくれているからだろうか。
「・・・っ」
美鶴が小さく息を呑んで、亘は驚いて目を開けた。
考え事をしているうちに、いつしか半分眠ってしまっていたらしい。首がかくりと力を失って、頭が美鶴の肩に乗ってしまっている。
「あ、ごめん」
慌てて体勢を立て直そうとした亘の頭を、美鶴のつないでいない方の手が押しとどめた。
「みつ・・・」
「いいから」
肩の上から見上げた美鶴の表情は硬かった。どこを見ているのだろうか、まっすぐ前を見据える瞳。きつく引き締められた口元。骨 ばった肩にも力が入っている。
「美鶴、」
亘はそっと名前を呼んだ。ゆっくりと、美鶴が視線を亘の上に落とす。目が合ったことを確認して、亘は口を開いた。
「ごめんね」
つないだ手を一度ほどいて、それからぎゅっと握りなおす。美鶴の目が大きく瞠られて、逃げようとするみたいに腰が引ける。しかし、 それは一瞬だけだ。亘の体から距離を置こうとする体を押しとどめて、美鶴はぎゅっと目を瞑る。いまだ接触におびえる、美鶴の体。
(ごめんね、)
亘はもう一度、心の中で呟いた。勝手だ。わかってる。
でも、当たり前にしてしまいたかった。
(こうして、触れ合っていることを)
(同じ世界に、存在していることを)
美鶴は今にも消えてしまいそうにいつも儚くて、こうして隣にいられることが信じられなくなる。不安に、なる。確かに同じ世界に、 同じ場所に存在しているということを、何度確認したって足りない。いつも不安で仕方ない。
しゃぼん玉のように消えてしまわないように、こうしてずっと、いつでも、手をつないでいられたらいいのに。
本当に勝手で、目も当てられない。そうわかっていても、放すことが出来なかった。
美鶴はまだ、おそれているというのに。
美鶴にとって、きっと接触は傷つけることだった。暴行、って意味だけじゃなくて、きっとその接触が優しければ優しいほど、失くした ときの傷は深い。美鶴はそれを、おそれている気がする。美鶴にとって優しさは、いつか失くすものでしかなかった。
だから誰にも傷をつけられないように、心を閉ざして、接触を拒んで、ずっとひとりで生きてきた。
でも、触れ合うことの温かさを、思い出してしまったから。
そのときから、また再びおそれる日々が始まったのだ。
ひどいことを、しているのかもしれない。その自覚があったからって、何だと言うのだろう。
美鶴は黙って、体を強ばらせている。
重ねた手が汗ばんでも、亘は手を放せずにいた。ほのかに秋の気配を秘めた夕暮れの風が美鶴の髪を揺らして、横髪が亘の頬をくすぐる。
「・・・・・から」
小さな声で、美鶴が何かを言った。本当に小さく、風にさらわれて掻き消えてしまいそうな声だったけれど、亘の耳にはちゃんと届いた。
『嫌じゃないから』
「・・・・・うん」
亘は泣きたいような気持ちで微笑んで、頷く。
いそがなくていいよ、と言ってあげたくて、言ってあげないといけないと思うのに、やっぱり言えなかった。

(ごめんね)


06/11/19
さりげなく季節はずれですみません・・・(香川