――暗闇の中でたゆたい、嘆く夜も、明けると信じられる、強さを。どうか。








ガタンという重い音がして、屋上の扉が開いた。顔だけで振り向くと、開け放った扉から一歩踏み出したところで、立ちすくんでいる 姿がある。階段を駆け上ってきたのであろう叔母の、細い肩がせわしなく上下していた。両手を胸の前でかたく握りしめている。淡い 色の唇が何を言おうとしてか開閉を繰り返したが、音を伴うことはなく空回りするだけだ。
「姉さん」
夢の中の美鶴は、静かに呼びかけた。
風に遊ばれて視界をさえぎる髪を片手で押さえると、不安定な体がわずかに揺れる。当たり前だ。美鶴は今、屋上のフェンスの上に 腰かけているのだから。
「どうして、そんな顔をしているんですか、」
問いかけると、こらえきれなくなったように、叔母の頬を大粒の涙がころがり落ちた。


「さようなら」







(三谷、亘)
心の中でその名を呟くと、激しく鳴っていた心臓が規則正しいリズムを思い出した。
(初めて、俺を他人として求めた人間)
最初から、どこかで会ったような気がしていた。思い出そうとすればするほど、ささやかなひっかかりは遠ざかっていって、美鶴に 残されたのは現在の新鮮な驚きだ。
三谷亘は、奇妙な子どもだった。強情で、泣き虫で、なにやらよくわからない理屈を言う。美鶴に会えて本当に嬉しいのだと、事ある ごとに伝えては、照れたように笑った。現在住んでいる美鶴の家は、彼の家からは少し遠いはずなのに、月に二度くらいずつ会いにや ってくる。そこまでして美鶴と一緒にいても、何もよいことなどないはずなのに。そんな美鶴の不安を溶かそうとするみたいに、亘は笑 いかけてくる。
亘と一緒にいると、いつもより楽に呼吸が出来た。生きているのだと、思うことが出来た。亘が美鶴を好きだというから、美鶴は美鶴 が生きていることを許すことが出来た。







『美鶴、なに考えてるの、』
 亘の声は、優しい。ときどき、どうしよもなくつらくなってしまうくらいに。
「何でもないよ」
あの日、フェンスの上から見下ろした、叔母の疲労に陰った顔の中の絶望を思い出す。そして今日、テーブルの上で頭を抱えていた姿 を。
亘と出会ったときは、自分は少しでも変わることができるのかもしれないと思った。長い間忘れていた気持ちを思い出したことで、自 分にも何かができる気になっていた。今思うと、あまりにもおろかな勘違いだ。
自分は変わらない。今も、傷つけることしかできない子どものままなのに。





(帰りたい。)
(でも、帰れない。)





「もう俺から、解放されてください」
美鶴は何かをこらえきれなくなったように、素早くうつむいた。私は何を言われたのかがなかなか理解できず、美鶴のつむじを呆然と 見つめる。美鶴が引き寄せた私の手首に熱いものが落ちて、はっと目を見張った。
「幸せに、なってください」







執着するということ。愛するということ。その二つがあまりにも近すぎて、私には区別がつかない。それでも、私なりに愛してきた。 愛そうと思うより早く、愛していた。愛していた。
「愛して、いるんです…」
それなのに、どうしてうまくいかないの。





「ねえ美鶴、幸せ?」
「…幸せだよ」






モーニング・ナイト








滲んだ涙はこぼれることなく、風が乾かした。













(ブラウザバックでお戻りください)