つないだ手の温もりを、 知る前には戻れない

「今年ももう終わりだねえ・・・」
一音一音かみしめるように亘が言うので、美鶴は思わず吹き出してしまった。なん で笑うのさ、と亘は不満げに頬を膨らませる。食べ終わったそばの器がまだ残って いるテーブルに顎を乗せて、上目遣いで美鶴を見た。
亘は、いつまでたっても子どものような仕草をする。
「似合わないのに、なんか老成したようなこと言うから」
「似合わないってとこに怒ればいいのか、老成したってとこに怒ればいいのかわか んない」
「老成した、は褒め言葉だろ」
しらっと返す美鶴の足を、亘は炬燵の中で軽くつつく。美鶴は表情を変えず、すぐ に亘の足が届かないところに足を移動させた。
亘は口を尖らせて、目標物を失った足をぶらぶらと左右に揺らす。
「僕まだ大学生なんだけど」
「知ってるけど」
「つまりじじむいさいってことを言いたいんでしょ」
「そんなこと言ってないだろ」
言ってるようなものだって、と亘は嘆息した。少しだけ体を起こして、立てた右肘 に頭をあずける。左手でごそりごそりと炬燵布団を引き寄せると目を伏せた。
「一年って、あっと言う間。昔はもっと、時がゆっくり流れていたような気がする のになあ」
しみじみと呟く。美鶴は何も言わずに亘を見つめて目をまたたかせた。亘は大学生 というよりは高校生に近く見える外見をしているけれど、目を伏せると途端に大人 びた雰囲気を帯びる。それは彼の意思ではなく、幼い彼をおそった避けようのない 様々な出来事が生み、理不尽な数々によって否応なしに作りあげられてしまった顔 のようで、美鶴の目にはひどく不安定に映る。
事実、正しい部分もあるだろう。けれど、それはやはり亘を守られる子どものよう に見たがっている美鶴のまぼろしであり、大人びた顔も亘のなかにしっかりと根付 いた亘の一部分なのだろうこともわかっていた。
亘は外見よりもはるかに強く、大人なのだ。
美鶴がそれを認めたくないだけで。
「ねえ、美鶴おぼえてる?」
「なにを?」
「昔一度だけ、一緒に年越ししたことあったよね。僕と美鶴と、母さんとアヤちゃ んと」


 +


「やっぱり炬燵ではみかんだよねえ・・・」
「腹壊すぞ」
壊さないよ、となぜか威張るように言って、亘は笑った。黄色く染まった指先を、 美鶴にぐいと見せつける。美鶴は呆れてその手を押しやった。
「美鶴くんもアヤちゃんもどうぞ」
邦子はテーブルの真ん中に置かれた器から二つみかんを取り出し、美鶴とアヤの前 にひとつずつ置く。
「ありがとうございます」
どうぞ召し上がれ、と邦子は笑みを浮かべ、みかんを剥き出す二人の姿を頬杖をつ きながら見つめた。その温かい目に、美鶴はなにやら居心地が悪くなって、思わず 下を向いてしまった。みかんの皮を剥くことに熱中している振りをする。
「大晦日の夜にもお仕事が入っちゃうなんて、お姉さんも大変ねえ」
「叔母さんいつ帰ってくるって言ってた?」
「11時ごろになるかもしれない、って・・・・」
「アヤね、お姉さんが帰ってくるまで寝ないで待ってるの」
みかんを一房口に含んで、アヤがにっこりと笑う。えらいわね、と邦子がアヤの頭 を撫でると、猫のように目を細めた。
「それでね、お兄ちゃんと亘お兄ちゃんと一緒に初詣に行くの」
ね、お兄ちゃん、と笑顔を向けられ、美鶴は少し困ったように笑った。幼い妹が深 夜まで起きていられないことは明白なのだ。
丁寧に細かい筋まで除かれた美鶴のみかんを、隣に座っていた亘の手がひとつさら っていった。
「こらっ」
「はっへ、ひふふ」
「とりあえず飲み込め」
亘は従順に頷いて、もごもごと口を動かす。ごくりと飲み込んでから口を開く。
「だって美鶴。みかんの筋には栄養があるんだよ」
「だからなんだって言うんだ」
「美鶴は栄養とらなきゃだめだって。だからこれは僕がもらってあげる」
交換ね、と言って、亘は自分の筋を取ってないみかんを美鶴の前に置いた。
「亘!」
邦子に名前を呼ばれ、亘は首を縮める。お行儀が悪い、と始まった小言を半ば聞き 流して、美鶴にだけ聞こえるくらいの小さな声で呟いた。
「僕もきらいなんだよね、筋。でも母さんが怒るからさあ・・・」
美鶴は吹き出しそうになって、慌てて咳払いをして誤魔化した。風邪かと心配する 邦子に首を振って笑顔を見せると、筋のないみかんを一房亘の口の中に放り込んだ。 亘は満足げに微笑む。
「アヤはいい子だから、ちゃんと筋まで食べるよ!」
そう言って、アヤは胸を張った。途端に亘は情けない顔をして、テーブルの上に力なく突っ伏す。
「亘お兄ちゃん、どうしたの?」
無邪気なアヤは首を傾げ、美鶴と邦子は同時に笑い声を上げた。
年越しそばをみんなですすり、31日も終わりに近づいていく。舟を漕ぎ出していた アヤは、10時半を過ぎたころにとうとう本格的に寝入ってしまった。
亘と美鶴は、アヤを起こさないように出かける準備を始める。近所の寺で除夜の鐘を 鳴らしてから、初詣に向かうのだ。
「明日起きたら、アヤに泣かれるだろうな」
美鶴が苦笑しながら呟く。亘も明朝を想像してくすりと笑い、鞄を手にして立ち上がる。
「わたあめをお土産に買ってくればいいよ」
「それ、お前が食べたいだけじゃないのか?」
ひどい、と亘は唇を引き結んで、美鶴の肩に自分の肩を軽くぶつけた。


外は、ひどく冷え込んでいた。当たり前だ。今は12月で、しかも普段外に出ないような 時間帯だ。
寒いね、と呟くように言って、亘は顎をマフラーにうずめた。
美鶴の少し前を歩いていたが、唐突に振り返る。かぶっている帽子の耳あての先についた 紐が、くるりと円を描いて揺れた。
「年明けまで、もうちょっとだね」
「そうだな」
「あのね、」
亘は少し逡巡した後、美鶴に向かって左手を差し出す。
「手、つなごう」
「・・・・・?」
唐突な行動の意味がわからない。だが、突っ返す理由もなく、美鶴は亘の手を取った。
「へへっ」
亘は美鶴の手をぎゅっと握って、幼い子どもがするように前後に揺らす。美鶴が目線で 意図を問うと、亘は照れたように笑った。
「年明けのときってさ、ジャンプしたりするでしょう。年が明けた瞬間、地球にはいな かった、ってやつ」
「・・・・?ああ」
「来年の初めは、美鶴と手をつないだことから始まるんだね」
年の初めは、なにか特別なことをしたいじゃない、と笑う亘の目線から逃げるように美 鶴は顔を背けた。空気はひどく冷たいというのに、顔が火照っているのがわかる。
「照れないでよ・・・・!恥ずかしいじゃん!」
「照れてない」


 +


「3、2、1、おめでとうー!」
30秒前からカウントしていた亘が、年明けとともに勢いよく頭を下げた。
「今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ」
顔を見合わせると、どちらからともなく吹き出す。亘は両手をあげて伸びをしたあと、 ぱたりと床に突っ伏した。
「初詣、行かないのか?」
「うーん、もうちょっとごろごろ・・・・」
幼いころより長めに揃えられた髪が乱れるのも構わず、炬燵布団の端を抱えて目をつむ ってしまう。美鶴は立ち上がって、テーブルの上のものを流しに移動させる。器は、明 朝に洗えばいいだろう。テーブルを拭き、緑茶の葉を入れた急須に湯を注ぐ。
「亘、」
声をかけるが、亘は小さく唸っただけで起き上がろうとはしなかった。寝息をたて始め るのも時間の問題だろう。
「お前は、いつまで俺のところにいてくれるんだ?」
亘が起きているときには絶対に言わない言葉を、美鶴は呟いた。
いつだって、手を取るのは美鶴じゃない。亘だ。亘が手をつないでいてくれるから、こう して当たり前のように傍にいることが出来る。
でも果たして、今の亘の傍に自分がいる意味があるのだろうか。
幼い頃とは違う。亘の大きくなった手は、美鶴の手だけではなくいろいろなものを掴みと ることが出来る。
「お前の傍にいるために、俺は何をしたらいいのかな」
答えは、ない。
返るのは規則正しい寝息だけだ。
(香川
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