原作と翼をなくした少年の設定がベースです。
(1)砂の城
髪を揺らす風は、冷たかった。頬を撫でる感触は優しいのに、熱を奪って逃げていく。亘は冷えた指先でむき出しの膝を引き寄せて、
その上に顎を乗せる。裸の足が辿った跡が砂浜に残される。一定の間隔で寄せては引いていく波も、この場所までは届かなかった。
沈みゆく夕日の光を映して、一筋だけきらめく海を見つめる。黒と橙のまがまがしいコントラスト。油が燃えているみたいだ。橋のように伸びた光は、夕日まで
渡っていけそうだ。人の心を惑わせる。暗い美しさで、とらえて離さない。誘われて踏みこんだ人を、絶望に叩き落すのだ。目の前
にうつくしい場所があるのに、自分はそこに行くことは許されないのだと。そして幻想を抱かせる。資格のある、選ばれた人間だけが
、この向こうに行くことを許されているのだという、夢を。夢にうらやみ、夢に迷いこむ。人間の胸に巣食う羨みや妬みを呑みこもう
と海は近づいてくるけれど、手綱を握られてでもいるかのように、逆側からつかまれて引き戻されてしまう。いっそ、呑みこんでくれ
たらいい。暗く深い永遠に閉じこめられて、眠らされてしまえばいい。きっと、幸せなことだろうから。
それでも、呑みこまれるつもりはないけれど。
(羨みも、妬みも、いろいろな汚い気持ちも全部、僕のものだから渡さない)
「亘」
「母さん」
名前を呼ばれ、呼んだ後、互いに次の言葉は続かなかった。背後に近づく気配がしたと思ったら、母さんは黙って亘の隣にしゃがみこ
んだ。横目で見た横顔は、海を見つめていた。瞳にまで夕日が輝いている。夕日はひとつしかないのに、太陽はたったひとつだけなの
に、この世界にはなんて多くの模造品があふれかえっているのだろう。なぜ模造品まで、こんなにもうつくしいのだろう。いやになる
。本物は、ひとつだけでいいのに。ひとつであるからこそ、うつくしいはずなのに。偽物が満足させてしまったら、本物のある意味が
なくなってしまうじゃないか。惑わせるな偽物。本当の物しかいらない。偽物で満足したりなんかしない。本物でしか満たせない。満
たされない。求めているものはたくさんあるけれど、どれもひとつずつしかない。他の物で埋められるものなんてない。
「こわいわね」
きれいね、とは母さんは言わなかった。ただ、こわいと言って、それでも視線を外さなかった。海のことを言ったのかもしれないし、
他のことを指していたのかもしれない。それがなになのか亘は知っている気もしたし、知らない気もした。こんなに近くにいても、
同じ血を体内にめぐらせていても、自分じゃない人の気持ちなんてわかるはずがなかった。わかった気になっても、それは亘の主観的
な考えでしかなくて、本当の物はいつだってひとつだけ、その人のなかにしかないのだ。
「こわいよ」
亘の言葉に母さんは頷いたけれど、亘が何を考えてそう言ったのかなんて、わかっていないだろう。
母さんはうつむいて、白い指で砂を掬った。さらさらと指の間からこぼれ落ちる砂を、最後までこぼしきる前に手を逆さにして落とし
た。形作られつつあった三角の山は、上からたたき壊された。
子どものころ、といっても亘はまだ子どもだけれど、もっと小さい頃の話だ。砂場で山を作っていた時のことを思い出す。三人くらい
で丸くなって、大きな山を作っていた。ろくな会話もせずに集中して側面に砂を貼りつける。力加減が難しいのだ。すぐに表面にひび
が入ってしまうから。立ち上がった亘たちの腰ほどの高さもある大きな山ができた。あとは両側からトンネルを掘って完成だ。じゃん
けんで三人のうち二人を選ぶ。選ばれた亘ともう一人が山を挟んで一直線上のところにしゃがみこんで、山の中に慎重に指先を進めて
いく。残ったひとりは落ち着かなくうろうろと足をさまよわせながら、危ない危ないとさかんに声をあげた。額からしたたり落ちた汗
を、拭う余裕もない。どれだけの時間が経ったのだろう。とうとう、山の中で指先が触れ合った。あっ、と同時に声が上がる。それで
も焦るまいと、最後の距離を進めていく。無事にトンネルが開通して、あとは気をつけて手を引き抜くだけだ。一度は触れ合った指先
が離れて、暗い穴の中を戻っていく。緊張はするけれど、不安はもうない。もうすぐ、もうすぐ。
「あっ」
目のなかに砂が入って、亘は目をつぶった。なんで、と思う前に、不吉な音が響く。固まった砂が踏みしめられる音。
一人が、泣き出した。亘はそうっと目を開いた。目を開いて何が起こったのかを確認するのはこわかったけれど、知らないほうがもっ
とこわかった。
最初に見たのは、足だ。当時人気のあったヒーローが所属するチームのマークがデザインされた青と白のスニーカー。山があった場所
に、それはあった。足が上下するたびに、ぱらぱらと砂のかたまりが飛び散る。得意げに、山を踏みつぶして笑っていた。
もうひとりも泣き出した。ばかと叫びながら、大きな泣き声をあげる。きっと幼稚園だった。聞きつけた先生が叱る声を聞きながら、
亘は黙って山があった跡を見つめていた。悔しくないわけでも、かなしくないわけでもなかった。けれど、泣いたらいけないと思った。
ここは怒るところで、泣くところではない。怒ろうとすると涙がにじみそうになるから、黙っていただけだった。
「亘くんを見てみなさい、泣いてないでしょう」
山を壊した子どもを叱ったあと、いつまでも泣き続けていた子どもも先生は叱った。仲直りをしましょう。涙をこぼしていた二人はそ
の言葉に頷いたけれど、亘は納得できなかった。けれど、どう納得できないのか説明する言葉を持っていなかった。先生に頭を押さえ
られて謝った子ども。先生は続けて、亘たちにいいよと頷かせてその場を終わらせた。よくないんだよ、と亘は言いたかったし、意味
がないよとも言いたかった。涙は依然として目の奥に待機していて、解放されるときを待っていた。だから口を結んで、じっとしてい
た。
その日迎えに来た母さんは、先生からその話を聞いたらしい。珍しく早く帰って来た父さんに、その話をして聞かせた。父さんはこれ
また珍しく機嫌がよくて、亘は強い子だなと頭を撫でてくれた。そうじゃないんだよと言いたかったけれど、子どもながらにそうして
はいけないことがわかって、黙って頭を撫でられていた。嬉しいのに、かなしかった。違うんだよ。そうじゃないんだよ、父さん。心
のなかで、何度も何度も呟いた。手の大きさと温かさを感じながら、山の残骸を思い返していた。
今なら、あのときの気持ちをどう説明したらいのかわかる気がする。戻らないものがあることを、幼いながら知っていたのだと思う。
あの砂の山は何度でも作り直すことができるけれど、あのとき、あの瞬間に出来上がりかけていた山は二度と作られることはないのだ
と、知っていた。壊した子どもはそれを知らなかった。許した子どもたちもまた、知らなかった。もう一度作ればいいと、きっと思っ
ていただろう。なら先生はどうだろう。先生はきっと、知っていた。一度壊れたものと完璧に同じものはもう現れないのだと、わかっ
ていた。わかっていても、壊せる。それが大人だった。あのときの亘は、壊れないものがあると信じていた。だからこそ、壊されるこ
との喪失に我慢できなかった。
今は、どうだろうか。よくわからなかった。永遠がある気もするし、どこを探しても見つからない気もした。
母さんの真似をして、掬いあげた砂を落として山を作る。さらさらと斜面をすべっていく砂。ゆるやかな山形。できあがった山を、手
のひらで押しつぶした。砂が崩れる軽い感触は、あまりにも心許ない。いましか存在しない山は、これで消滅して、もう二度と現れる
ことはないだろう。
亘はきっと、壊れないものなんてないのだと諦められるほど大人ではなかった。そして、壊すことができない子どものままでもなかっ
た。壊せるようになったのは、未来が続くことを知ったせいだ。同じものは作れないけれど、新しいものを作れる手に気づいたせいだ。
小さなこの手でも、できることがある。亘は忘れかけてしまっているけれど、それを教えてくれた人がいた。トカゲのような大男であ
り、世話好きな猫の女の子であり、正義を貫いた女の人だった。それに銀の甲冑の男性や、長いひげの魔道師や、たくさんの幻界のヒ
トビト。
学んだこと。渡されたもの。受け取った想い。忘れていても、亘の中に確かに生き続けている。
「ごめんね、亘」
波の音の隙間で、呟く声。亘は首を振った。
「いいんだ」
この手は何かを生み出し、なにかを破壊する。望む心も、憎む心も、さまざまなものが身のうちにあふれている。欲しいもの、許せな
いもの、本物、偽物、どうか迷うことのないように。
本当のことを言うと、まだ自信はないのだ。壊すことはおそろしい。
それでも、未来を信じたいから。
これから起こるであろうこと。伝えなければいけないこと。伝える人を、想う。
(僕はきっと、とてもつらい想いをさせてしまう)
耐えて欲しいと思う自分は、ひどい人間なのかもしれなかった。酷なことを、強いようとしていた。
「戻ろう、母さん。お祖母ちゃんとルウ伯父さんが待ってる」
亘は砂を払って、立ち上がる。亘のほうを見た母さんは泣きそうな顔をしていた。唇がかたまっているのは、ふるえる直前だからか。
しのびよる波に、今にもさらわれてしまいそうだった。
「母さん」
亘は微笑んだ。微笑んで、手を差し出す。
さらわれちゃだめだよ。渡しちゃだめだ。大切なものも、目をそらしたい気持ちも、全部。いらない不安も。
それを口にする代わりに、こう言った。
「幸せになろう」
07/02/26
(香川)
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