さよなら、という言葉が嫌いだ。
じゃあね、またね、そんな言葉を交わす時間が、とても嫌いだ。
なんで平気で、そんな言葉を吐けるのだろう。
答えなんて知ってる。
再びまた会えることを疑っていないからだ。翌朝笑顔で、おはようと手を振り合うことを
信じているのだ。
美鶴はどうしても、それを信じることができない。それは彼の中にかすかに残る、目をこ
らそうとすると逃げていくのに、時折ふと浮き上がってくる幻に、端を発している。
行ってきます、と家を出た日。いつも通りの日。特別なことといったら、その日が美鶴の
誕生日だったということくらいだ。その日の美鶴はまだ、ただいまと帰宅することを少し
も疑っていなかった。平凡だけど幸せな日常が続いていくことを、当たり前のように信じ
ていた。
その幻では、帰宅した美鶴を待ち受けているのは美鶴を除いた家族全員の心中という現実
だった。
他愛もない幻だ。なんでそんなものが浮かんでくるのかもわからない。
美鶴は確かに父も母も亡くしたが、それは偶発的な事故であったし、幻では両親と一緒に
死んだ妹も元気に生きている。
けれど幻は確かに美鶴の中に存在していて、美鶴を苦しめていた。
日常が平和で幸せであればあるほど、美鶴は不安になる。いつまで続くのか。明日には崩
れさってしまうんじゃないか。
じゃあまた明日、と屈託なく笑って手を振る亘を、何度引き留めたくなったことか。
できるならいつでも一緒にいたい。最後は唐突にやってくるから。最後を別々に過ごすこ
とは考えるだけで恐ろしかった。いつ最後がやってきてもいいように、いつも手元に置い
ておきたい。いっそのこと閉じこめてしまいたい。叶わぬことと知りながら、甘美な想像
は美鶴を魅力してやまない。
それほどに、別れはいつも身を切られるようにつらい。
「そろそろ寝よっか」
大きなあくびをして目をこすった亘が言った。
長い間握りしめていたコントローラーを床に置き、ゲームとテレビの電源を落とす。
美鶴は読んでいた本から顔をあげた。
亘はゲームに熱中し、美鶴はその傍で本を読む。それはいつも通りの、二人でいるときの過ごし方だ。
違うのは、いまが夜だということだけ。
今夜、美鶴は亘の家に泊まりに来ていた。
亘の母は仕事の疲れのためか、早々に寝室に引き上げてしまったので、リビングにいるの
は二人だけだ。
「僕の部屋いこ」
亘はリビングの電気を消して美鶴を先導する。
亘の部屋は勉強机とベッドにスペースのほとんどが占領されていて、布団を敷くスペース
はないはずだ。
もしや、と美鶴は内心で動揺する。
部屋に入って明かりをつけた亘は、にこりと美鶴に笑いかけた。
「ちょっと狭いけど、ベッドでいいよね」
…何の試練だ。
亘は先にベッドの布団に潜り込んで、美鶴を手招きする。美鶴は動揺を押し隠してその後
に続いた。
美鶴が潜り込んだのを確認すると、亘はリモコンで部屋の電気を消す。
明るさに慣れた目は暗さに対応できず、視界が闇に閉ざされた。
互いの息づかいと、触れ合っている肩から伝わる体温を強く意識する。
「おやすみー」
美鶴の緊張など知らない亘は、目を閉じて3秒で眠れるお子様だった。
…お気楽なお子様め。
起こさないようにそっと手を伸ばし、美鶴より少しだけ小柄な体を抱き寄せた。
規則正しい寝息に耳を澄ませる。亘の体は美鶴よりも体温が高くて温かかった。
美鶴の体を満足感が満たした。さようなら、と別れずに同じ家に帰り、同じベッドで眠る
幸せ。
この幸せが欲しくて、人は結婚するのかもしれない。
けれど美鶴も亘もまだ幼くて、幼すぎて、二人で暮らしていくなんてまだ遠い夢のよう
だった。
美鶴は遠い遠い未来のことを思って、苦しくてたまらなくなる。そんな不確かな未来なん
か信じられなかった。その未来を手に入れるためには、あと何回のさよならを経験しなけ
ればならないのだろうと考えて、その途方もなさに苦しくてたまらなかった。
いま、欲しくて欲しくてたまらなかったものが、いま胸の中にあるのだ。
このままずっとこうしていられればいいのに。
それが叶わないならいっそ、いまこの瞬間に終わりがきてほしい。
そう、強く願った。
夜の静寂の中に、波のように寄せては返す、密やかな終焉の音。
美鶴は亘の体を強く抱きしめながら、耳を澄ませてその音を探した。
06/07/17
美鶴のほうが怖がりじゃないかな、と。(香川
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