「うわぁ…!」
亘は開口一番、感嘆の声をあげた。
室内に一歩踏み込んだ足をまた一歩踏み出して、それを軸にターンするようにぐるりと辺
りを見回す。体の動きに合わせてステップを踏んだ足がもつれて倒れこみそうになるの
を、素早く伸びてきた美鶴の腕が支えた。
「ごめん!」
「はしゃぎすぎ」
美鶴は呆れたようにため息をつく。亘は眉を下げて、亀のようにきゅっと首をすくめた。
けれどおそるおそる覗いた美鶴の目は優しくて、くすぐったいような照れくさいような妙
な気分になって、亘は笑みを浮かべる。美鶴は少し困ったような顔で笑い返すと、亘の体
からゆっくりと手を放した。
まだ笑い返すことに慣れていない、そのぎこちない笑みが好きだ。
亘の目を見返しているように思えるが、実は少し伏し目がちにそらしている。内側から溢
れるように笑いがこぼれて、薄い唇からは白い歯が覗いていた。はにかむような笑顔は彼
を年相応に見せる。本人に言うと怒られるだろうから言わないけど、亘はその笑顔をかわ
いいと思っていた。美鶴は花のように笑う。ひっそりと道陰に一輪だけ咲いていて、見つ
けた人の心を和ませる花のように。
それは以前の彼なら、絶対に見せなかったであろう笑顔だ。
(以前?)
亘は自分の考えに、ふと違和感を覚えた。
「紅茶しかないけどそれでいいか?」
「うん!」
しかしその違和感は、次の瞬間には泡のように弾けて消えてしまう。
適当に座って待ってろ、と言いおいて、美鶴は部屋から出ていった。
「これが美鶴の部屋かぁ」
亘は感慨深く呟く。
そう、亘は美鶴の家に遊びに来ている。叔母さんと妹と3人で暮らしているというマン
ションの一室に。
美鶴が亘の家に遊びに来ることは何度かあったが、美鶴の家に来るのは今日が初めてだっ
た。
亘はまた周囲を見回した。物の少ない部屋だ。パソコンデスク付きの机とベッドと本棚が
ある以外はがらんとしている。
亘は迷った末にフローリングに腰を下ろした。
こんこん。
小さな音がして、美鶴が閉めていったドアが外側に向かって開く。
「こんにちは」
顔が現れると予想した場所よりかなり低いところから小さい顔が覗いた。
小学校低学年くらいの、女の子。頭の両脇の高い位置で結ばれた髪が、お辞儀した拍子に
ぴょこんと揺れる。
亘はその女の子を知っていた。美鶴が転校してきた日、げた箱でぶつかってしまった子。
その後も何度か校内で見かけた美鶴の妹だ。
「こんにちは、アヤちゃんだよね?」
そう亘が呼びかけると、アヤはこくんと頷く。そして口元に小さい拳を押し当て、きらき
らと輝くような笑みを浮かべた。
「お兄ちゃんが亘くん?」
「う、うん。そうだよ」
まさか名前まで知っていてくれるとは思わず、亘は目を白黒させる。
「アヤ!」
美鶴が焦ったように飛び込んできて、亘をちらりと見たあとアヤの前に膝を突いた。
目線を合わせたのだと、一拍おいてから気づく。あまりに自然だったので気づくのが遅れ
た。お兄ちゃんなんだな、と一人っ子の亘は美鶴を羨ましく思う。
「余計なこと言うなよ」
「余計なことって?」
美鶴の言葉に、アヤはきょとんと目を丸くした。
美鶴の頬がぴくりとひきつる。
「お兄ちゃん、お湯沸いちゃうよ」
首を傾げたアヤに言われて、美鶴はため息をつきながら立ち上がった。
「とにかく、こいつにいろいろ話さないこと。いいな?」
「うん、わかった」
アヤは素直に頷く。それを確認して、美鶴はまた部屋を出ていった。
「変なお兄ちゃん」
アヤはそう呟くと、亘の方に歩み寄り、追い越して、美鶴のベッドにダイブするように体
を投げ出す。
亘が見ていると、アヤがひょいひょいと手招きをした。
「床冷たいでしょ。おいでよ」
にこにこと無邪気に笑いかけてくるアヤの誘いを断るわけにもいかず、亘も美鶴のベッド
に乗り上がった。
アヤはぺたりと布団に耳をつけて横になる。
「お兄ちゃんね、亘くんの話ばっかりアヤにするんだよ」
亘は驚いて、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「だからね、アヤ、ずっと亘くんに会いたかったんだぁ」
アヤの声が囁くように小さくなる。亘はよく聞こうとして耳を近づけ、その結果アヤの隣
に並んで横になった。
「アヤ、こうやってお兄ちゃんのベッドに寝っころがるの大好き。すぐに眠くなっちゃ
う」
アヤはその言葉を証明するように、小さなあくびをひとつする。
「お兄ちゃんの匂いがして安心するの」
そう言って、目を閉じた。
(美鶴の、匂い)
亘はアヤの言葉を強く意識してしまい、思わず大きく息を吸い込む。確かに美鶴の匂いが
した。シャンプーやボディソープの匂い、家の匂いや体の匂い。それらが複雑に合わさっ
てできる、美鶴の匂い。
布団に鼻先をうずめると、安心した。
(僕は君のことを前から知っている気がするんだ)
この匂いをとても近くで、腕の中で、感じたことがある。
いつだろう。思い出せない。
(僕はなにか、忘れていってしまってる気がする)
美鶴と過ごす時間が多くなるにつれて、遠く離れていく。小さくなる。溶けるように消え
ていく。
それはとても大切なことで、忘れてはいけないことのような気がするのに。
「アヤ、亘?」
遠くで美鶴の声がする。いつの間にかうとうとしていたようだ。
返事をしようと思うのに、薄く開けた瞼が降りていく。
しょうがないな、と呟く声がして、体の上に柔らかいものをかぶせられた。
「みつる…」
体がやっと少し動いて、亘は美鶴の手を掴む。
亘の不安に気づいたわけではないだろうに、美鶴は応えるように亘の手を握り返した。
(忘れていく。忘れていく)
(記憶と一緒に、どこかに溶けてしまいそうでこわいんだ)
だからお願い、この手を握っていて。
06/07/20
Mさま、ネタ提供ありがとうございます。
タイトルはこちらからいただきました→http://jxw.xtr.jp/_/8ye/(香川
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