ママチャリの荷台にのって見た後ろに流れてく夕日に染まった世界は、まるで僕の理想だった。
「らーららららーらー…」
最近テレビの音楽ランキングでよく聞くいわゆるポップスの、サビの部分をあいまいな歌詞、あいまいな音程で歌う。ランキングでしか聞いたことないから、繰り返すのはサビだけ。だから、おんなじ理由でもあいまい。ぐ、と、太ももの間の手をきつく握りながら。手をきつく握っているのは体を支えるためで、握っているものはママチャリの荷台の金具。沈みそうな夕日を背景に、ぼくは自転車に美鶴と背中合わせに二人乗りしながらどこかへ向かっていた。
どこか、っていうのはもちろん、文字通りどこか、だ。どこか以外に言いようがない。だって行き先なんて、決まってないんだから。
「…っふえ、くしゅんっ、」
季節は夏、とは言え、七月半ば夏休み始まり。冷夏といわれる今年は特に、夕方からはわりと冷え込む。上は半袖一枚、下も半ズボンという格好はすこし気温を舐めている格好だったみたいで、ぼくは盛大にくしゃみをしてしまった。ちなみに今の体勢、分かっていると思うけど自転車二人乗り、さらにぼくの体重を支えているのはと言えば頼りない荷台とそれをつかむぼくの両手と、美鶴の背中だけ。そしてぼくの体重と美鶴の体重はたいしてかわらなくて、小学五年生の美鶴に驚くほどのパワーが秘められているわけもなく。
「…うわっ、」
めずらしくあわてた美鶴の声と共に、自転車はくしゃみと同じくらい盛大に揺れた。
ガッターン!
…と言う音と衝撃を予想したけど、それらはなく。
「…あれ、」
ががががぎぎぎぎと言ういやな音と共に自転車はゆっくり倒れた。下敷きになってこすれた足がすこしだけ痛いけど、ほんとすこしだけで自転車で転んだときのじくじくする痛みもまたない。
「美鶴、」
「早く立ち上がれよ、お前が倒れてると自転車を上げられない。」
「うん、ごめん。」
どうやら美鶴がうまく支えて衝撃を減らしてくれたらしい。美鶴の突然のことへの対応は鮮やかだ。
がたんがたんがたん。不恰好に自転車から離脱する。くすんだ赤色のこの自転車は美鶴のおばさんのお古で、小学生の癖にママチャリなのは妹のアヤちゃんを乗せるのにそれがちょうど良いかららしい。いつから使ってるのかものすごく古くて、ぼくが後ろに乗るとぎたんぎたん言う。乗らなくても言う。けど美鶴はぼくが乗ってぎたんぎたん言うとぼくの所為にするのは、まあそんなもんだと思う。仕方ない。乗せてもらってる身なんだから。
「…どこだろね、ここ。」
あたりを見渡して、自転車を起こす美鶴に話しかける。
見慣れない場所だ、石段が見えるけれど、神社だろうか。でもいつもぼくらが行く神社とは違う、もうすこし小ぶりなものだった。石段も10段ないくらい。
「…さあな、でもそんなには来てないだろ、お前がうちに来てから一時間もたってないし。」
細くて白い手首にはめられたごつい腕時計を見ながら言う。ときどきずれるそれは、美鶴のお父さんのお古だ。お古って言うか、正確には形見、ってやつなんだと思うけど。美鶴の家の事情は複雑なんだ。そしてぼくの家も、今日からすこし複雑になった。美鶴の家ほどじゃないけど。…比べることじゃ、ないんだけど。
「…そっか、」
「ああ。」
「そう言えば、おなかすいたね。」
「多少はな。」
ぼくらが美鶴の家を出たのは、たしか五時のチャイムが鳴ったくらいだった。夏だからまだ明るかった。今は空はオレンジだ。小学生のこどもがいるうちの夕飯は早くて、いつも六時くらいなんだ。
「帰るか?」
「…どうしようかな。」
まっすぐぼくをみてくる美鶴の視線から目をそらして石段に座る。つめたい石の感じ。
「おれはどっちでもいいけど。」
ママチャリを、支えを起こして道の脇に止めて美鶴もぼくの隣に座った。
「けど、財布持ってないから夕飯は買えないぜ。」
「…だよね。」
ぼくも持ってない。だって咄嗟に出てきたんだ。美鶴の家に行ったのだって突然だったし、美鶴もそんなの用意する時間なかった。あまりに突然すぎて、さすがの美鶴にも対処できなかったんだろう。ぼくたちが今持ってるのは、古びた自転車とその鍵と、自分、一時の自由、それにすこしのさみしさだった。あとはあるとしても、やるせなさとか、いたみとか、つらさとか。マイナスばっかり。ああ、それにお互いの存在。そのくらい。持ってるもので一番大きいものはお互いの存在。小学生にもてるものなんていうのはたかがしれてる。
「で、どうしたって。」
美鶴が首をかしげて、中途半端に伸びたさらさらの髪が流れる。そう言えば、美鶴を連れ出した理由すら言っていなかったっけ。なのに何も聞かないで自転車出して、後ろに乗せてくれて、こんなとこまで来てくれるなんて美鶴は良いやつだ。みんな冷たいとか言うけど、美鶴はすごくやさしい。夕飯はできていたといってもまだ洗濯物たたみと、おばさんが帰ってくるまでアヤちゃんと遊ぶって言う大事な任務があったのにぼくに着いてきてくれた。だからぼくは美鶴のことがだいすきなんだ、なんて、関係ないことを思いながら、
「…とうさんが、出て行くんだって。」
本題を告げた。美鶴はまだ黙ってぼくを見ている。
「何か、ほかの人すきになっちゃったから、出て行くんだって。ぼくとかあさんをすてて、出て行っちゃうんだって。」
淡々、と。
つらくてつらくてかなしくて、くるしくてしかたがないことのはずなのに零れる言葉は思いのほか一定で、感情が伴わない。実感がわかない。のは、あまりにつらすぎるからなのだろうか。こんなこときっと、世界中ではよくあることなのに。
「ほかの人と暮らすんだって、もうこどももいるって。…おとうさんは、」
ぎゅ。むき出しのひざの上においたてのひらを強く握る、と、白い線がひざにつく。
すこし、いたい。
「ぼくのこと、きらいに、なっちゃったのかな。」
いらなくなっちゃったの、かな。
「…そんなことは、ないだろ。」
ぽつりと重い言葉を落とすと、美鶴はうつむいてるぼくを見ながらいった。あまりにまっすぐな視線につられて、ぼくも顔を上げる。
「お前のこときらいになったとか、いらなくなったとか、そんなことはないだろ。だって離婚にお前は関係ないだろうし。」
「…でも、ぼくはかあさんととうさんの子で、」
「だから、それも関係ないって。おとななんてのはさ、勝手な生き物なんだよ。」
ふう、と溜息を吐いて。
「だから、お前のとうさんが出て行ったのにお前は関係ないだろ。ただ、お前のかあさんじゃない違う人を好きになっただけ。それだけなんだ。それだけでおとなは自分のこどもをたやすく傷つける。」
そんなもんなんだよ、と。
「…ぼくは、関係ないの。」
「ああ、関係、ないだろ。」
「…そか。」
「うん。」
きゅ。胸が、いたくなる。だけど同時にすこし、軽くなる。
「…おとなって勝手だね。」
「まあ、そういう生き物だからさ。」
「こどものこと、考えないんだ。」
「こどもがつらく思うなんて、思ってもみないんだよ。こどもが悩みを持つなんてことがあるなんて、さ。」
「小学生だって大変なのに。」
「小学生だっていろいろ、悩んでるって言うのにな。こどもがいきてくってのは、おとながいきてくのより実は大変なんだって、おとなは知らないんだぜ。」
「自分だってこどもだったのに。」
「そんなこと、忘れてるんだ。あいつらは忘れやすいから。」
「…そうだね。」
「ああ。」
「…おとなになんか、なりたくないな。」
そろえて立てた体育座りをしたひざに、あごを乗せる。遠くを見つめると、暗くなり始めたオレンジの空があった。
「こどものままでいたい。何にも、汚いこととか、知りたくない。」
こどものことを忘れていってしまう、おとなになんか、なりたくない。
「…なりたく、ないな。」
「うん。」
「そんな世界、あったら良いのにな。」
「こどもだけの、世界、」
「そう。」
美鶴の顔を見ると、すこしふざけたみたいな口端を上げたえがお。だけどきっと、それはいたいほどの本音だ。美鶴はぼく以上にいたみをしってる。勝手なおとなからあたえられる気まぐれないたみを。
「こどもだけの世界で、おれたちはいたみも、汚さも何もしらないで永遠にくらす。」
「おとなにならないまま、」
「ああ。ネバーランドみたいに。」
「ピーターパンが、迎えに来る、」
「…どうだろうな、あいつ、そこまで親切じゃなさそうだ。自分で探さなきゃかもな。」
「あの夕日の向こうとかにあったら、良いな。」
「うん。」
「探すの、たいへんそうだけど。」
「そりゃそうさ、簡単に見つかったら意味がない。」
おとなが入ってきたらこまるからな。
肩をすくめきれいなかおをゆがめて笑う美鶴の顔には、かすかだけれど痛みが走る。ぼくも無理やりにえがおをかえす。美鶴みたいにきれいに笑えたかは、わからない。
「二人だけの世界だけでもいいな、ぼくと美鶴だけの、さ。」
「そうだな。」
「美鶴だけだったらきっと、何もいたくないと思うんだ。」
「うん。いたくないのは、良い。」
うなずく、夕日の向こうを見つめながら。ぼくも、夕日に照らされてオレンジに染まるきれいな美鶴の顔から視線を動かして同じほうを見つめる。
「でも、ないんだ。」
「そう、だね。」
ないんだ、そんな世界は。だってぼくたちは、この夕日の向こうへいくら歩いていったって、いくら自転車をこいでいったってそんな場所にたどり着けないことをもうしってしまっているし、二人だけでいきていくにはすてきれない、大切すぎるものをたくさん持ってしまっている。たとえお互いが一番大切でも、すてられないものがたくさんある。小学生にだって、あるんだ。おとなはそんなこと、しりもしないだろうけど。
ひざから手を下ろして、石段に置かれた美鶴の手に手を伸ばす。指先がそ、と触れると、ぼくがつかむ前に美鶴がぼくの手を握った。ぼくの手よりすこし冷たいけど夏の空気の所為でいつもの美鶴よりすこし、体温が高い。
「…いきていくのは、たいへんだ。」
「ままならないな、ほんと。」
「ただたのしくいきていかれたら、それだけでいいんだけど。」
「そううまくはいかないんだ。神様は結構、きびしい。」
指先の、体温。体温体温。ああ、これだけでいいのに。
「運命は、そう簡単に変わんないんだ。」
願いは、そんなたやすく叶わない。
ひざに乗せたあいた自分の手の上に頬を押し付けながら、美鶴とぼくの手を見つめる。
「あたりまえだろ、だって、変わらないから運命なんだ。」
「…ん、そうだね。」
「誰かが変えてくれるわけでも、あるまいし。」
「…ままならないなあ、ほんと。」
美鶴の言った言葉を真似してすこし背伸びした単語を使うと、美鶴は唇をゆがめてにや、と笑った。
「帰るか。」
「うん。」
手をつないだまま美鶴が立ち上がり、ぼくを起こす。そうして手はつないだまま、美鶴は器用に自転車を支えてつっかえをはずした。かたんかたんかたん。そのまま歩くと、自転車は音を立ててついてくる。
「あー、おなかすいたな。」
「おれも、お前の所為でおなかすいた。」
「…かあさん心配してるかな。」
「それもお前の所為で、な。」
「…あやまる、よ。」
「ああ。いっぱいあやまっとけ。」
「ん。」
かたん、かたんかたんかたん。
自転車はなきごえをあげる。
ぼくたちが今持っているものは、古びた自転車と、その鍵、自分とすこしのさみしさ、それとお互いの存在だけだけれど、でも、今はただこの指先の体温があれば、いきていかれるのかもしれなかった。
06/07/23
パラレルでした。幻界の存在しない世界。(桂木
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