「たとえば、日本が戦争中だったとする。」
図書館に通ったり、宿題をしたり、プールに行ったり、亘とあそんだりしながらすごしたありきたりな小学五年生の夏休みも、終盤。いつものように、今年の夏休み最後のプールに行き、はんこを貰って、そしてその帰りに母が仕事でいない亘の家にお邪魔してアイスを食べている今。アヤはともだちの家にあそびに行っていて、叔母も仕事でいなくて。そんなふうに気だるい夏の昼過ぎをだらだらと、リビングのクーラーの風を浴びながら亘と過ごしていたのだけれど。
「いきなり、何。」
「たとえばの話だよ。たとえば、」
たとえばにしてもあまりに突拍子だろうと美鶴が溜め息をつくのも気にせず、亘は向かいに座った美鶴をまるで身を乗り出すようにして見詰める。さわやかな水色のソーダ味のアイスはカラン、と涼しげな音を立てて陶器の皿に放り込まれる。賢い選択だ。そうでもしなければ亘のアイスはただ無為にテーブルの上に染みを広げていくばかりだろうから。夏休みと言う、ふた月にも満たない期間で美鶴はそれを知ってしまった。亘は一生懸命になると、周りが見えない。
「それでね、ぼくが窮地に陥ったとするでしょう、」
「ふうん、」
何とはなしに、膝の上に置いた鞄から読み止しの本を取り出して横目で眺める。ピーチ味のピンクのアイスを舐める。じゃんけんで勝って得たピンクのアイスだ。じわじわと、あまいあじが咽喉の奥のほうへしみこんでいく。
「そうしたら、芦川はどうする。」
「……、」
はやすぎる上に諸々が省かれすぎていて中身の見えない話に、美鶴は首を傾げながらも答えを探す。理窟屋でおひとよしで一直線な亘の奇妙な行動なんて、いまさらだ。頭を使うほうがもったいない。
「窮地にもよるだろうけど、どうせ自業自得だろ。」
「うーん、だから、そういうことじゃなくてさぁ、」
頭を抱え込み、机の上に沈む。伸ばされた足が美鶴の足に当たった。ぺたり、というほのかに濡れた感触とあたたかい温度を伝えてから、それはすぐに引っ込んだ。
「じゃあ、選択問題にしよう。いちばん、颯爽とぼくを助ける。にばん、一緒に窮地に陥る。さんばん、ぼくの身代わりになる。」
ぴ、っと、いち、に、さん、の数字と共に指が立てられていく。美鶴は気だるい視線でそれを見ながら、アイスを咥えて背もたれに凭れかかる。
「どれを選ぶ、」
「よんばん、おまえを置いて逃げる。」
「そんな選択肢ないよ、」
「もしくはいつつめ。危険を察しておまえに近づかない。」
その三つの選択肢はありえないと、言外に伝える。ぺろ、と見せ付けるように桃色のアイスを舐めると、横からそれを奪い去られた。
「おい、」
「ひとくちだけだよ。」
亘はべ、と青く染まった舌を出して、美鶴のアイスに齧り付いた。美鶴がアイスを奪い返すと、不機嫌な顔をして亘のアイスが乗った皿を持ち上げて溶けた部分をずずずと啜り上げた。
「芦川は酷いおとこだ。」
「なんだそれ、」
アイスをいきなり奪った亘の方が酷いと思うのだが。自分が酷いといわれることに思い当たりがなく、眉をひそめる。
「ぼくにはきみしかいないって言うのにさ。」
「意味が分からない。」
顔を顰める。亘はひとつ重い熱気を吐き出して椅子に沈むように座りなおす。美鶴がアイスを齧ると、亘もでろでろに溶けかけたアイスのかけらをくちに含む。
「芦川でもわからないことってあるんだ。」
「三谷がわかりやすかったことなんてないじゃないか。」
いつだってわかりにくくって仕方がない、と首を横に振ると、亘は片方だけの眉を上げて妙な表情を作った。
「じゃあ、わかりやすく言おうかな。」
「そうしてくれ。」
時間がもったいないから。何も言わないでくれるのが最善なんだけど。
亘はそんな美鶴のことばにむっとしながらも、背筋を伸ばして座りなおしてまた最初のように身を乗り出して美鶴を見詰めた。
「宿題。手伝ってほしい。」
「はあ、」
「わからないところ教えてくれるだけでも良いんだ。おねがい、」
亘はパン、とかしわ手を打ち、美鶴を拝む。美鶴が眉間のしわを深めると、ね、と目を片方瞑って両手にいっそう力をこめた。
「……宿題、一緒にやってただろ。」
計算ドリルや国語のワークなんかは、会うたび、もちろんそれぞれひとりでもやっていたけれど、夏休みの間に一日数ページずつ消化して行っていたはずだ。現に美鶴の宿題はもう八月の半ば頃には終わらせている。自由研究もテーマを決めるのにお互い相談したりしたから、終わっているはずだ。美鶴のテーマは炎色反応、花火についてで、亘のテーマは確か夏の海の生き物。伯父さんの家に行くときに調べると言っていた。
それなのに、宿題を手伝ってほしいというのは何事か。
「やったん、だけど。ワークとかは終わってるんだよ、自由研究も。たださ、」
「……ただ、何。」
しゃく、しゃく。
亘のものほどではないが、溶けかけたアイスを消化していく。
「……うちのクラスだけ、だと思うんだけど。小テストみたいなプリントが配られてて。宿題一覧表にも載ってないし、すっかり忘れてた、んだけど。」
難しくってひとりじゃ解けなくってさあ、と、テーブルの上に伏せていたプリントを捲った。どうやらずっと置いておいたらしい。今日は最初からこれを手伝わせるつもりだったのだろうか。
「ばかだろ。」
「ばか、って……忘れてたのはぼくが悪いけどさ、」
くちびるを尖らせる。
「でも、本当に難しいんだよ。中学生の内容も入ってるって先生言ってたし。」
「中学生ならおれでも解けないだろ。」
「ぼくよりはましだと思う。」
「……最初にも、言ったけど。」
アイスの最後のひとくちを食べて、ポケットから取り出したハンカチで口元を拭い、それをそのままポケットには仕舞わないで膝の上に置いていた鞄の中に仕舞う。そしてその流れで、結局進まないままの本も仕舞った。
「自業自得だろ。」
「芦川ぁ、」
「縋ったってだめ。」
立ち上がり、アイスの棒をキッチンのゴミ箱に捨てる。
「じゃあ、おれ帰るから。」
「えっ、ちょっとまってうそでしょう、」
「うそじゃないさ。」
ふん、と息をひとつ吐いて鞄を肩にかける。
「アイス、ごちそうさま。じゃあな。」
「芦川っ、」
リビングの扉を開けて玄関に向かうと、亘は追いかけてくる。靴を履いてからくるっと振り向き、亘を真っ直ぐに見据える。亘は泣き出しそうな顔をしている。すこしかわいそうにもなってくるが、宿題を忘れていたのは自分の責任だ。自身でどうにかするしかない。
ひとくち奪われたアイスの恨み……っていうのも、あるけど。これくらいの意地悪は許されるだろう。そんなに難しいのなら、どうせ先生も解けるとは思っていないのだろうし。
「がんばれよ、三谷。応援してる。」
「……っ、美鶴、」
にっこり微笑んで見せると、亘はぐっと息を飲んで、それから肩を落として大きく息を吐いた。あきらめたらしい。しつこいくらいの頑固さがある亘だが、物分りがいいのもまた亘の性質だった。これ以上ないくらいの落胆を見せながらも、美鶴を止めることなく、どころか、一緒に玄関に下りて素直に家の鍵を開けてくれた。
「……じゃあ、ね。」
美鶴もどちらかといえば譲らないところは譲れない性格だから、それを分かっているのだろう。
「うん。」
眉を下げた亘の別れの挨拶に頷いて返す。
「……どうしても分からなかったら、電話しても良いから。」
「え、」
「考えても考えてもどうしても分からなかったら、だけど。」
「う……ん、うん。うん、ありがとう、」
亘の表情が一気に明るくなる。自力でぎりぎりまで頑張って、それでもだめなら仕方がない。あんまり落ち込んだ顔を見せるものだから、意地悪をする気持ちも減ってしまった。
「またね、また。今夜電話するかも。」
「分からなかったらだぞ。」
「分かってるよ、」
「……どうだか。」
苦笑を見せると、亘もへへへと照れ笑いを浮かべた。
07/04/024
気がつけば四月です。ひなまつりの日に書いたけど。(桂木
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