水をたたえる手

炎が舞っていた。
美鶴はなぜか、本に出てくる魔法使いのようなゆったりとした黒いローブを身に纏い、空中に浮かんでいる。右手には杖。1メートル ほどありそうなそれは、先が楕円の輪のようになっていて、小さい窪みが5つほど穿たれていた。窪みにはいくつかの宝石が嵌めこま れており、その奥で炎がゆらゆらと泳いでいる。
空は炎の赤とは対照的に暗く、黒く、どこまでも深く、そこしれない闇のようだ。美鶴の体は闇の中を漂っている。足元で炎がまるで 蛇のように牙をむき、美鶴に向かって赤い舌をちらつかせ、美鶴を呑みこもうと口を開ける。
その拍子に、炎が抱き込んでいるものがちらりと見えた。
森だ。森が燃えている。とぐろを巻く蛇の胸に抱かれて声にならない悲鳴をあげている。
炎は美鶴に触れる前に、なにかに弾かれるように霧散した。それは波が堤防に阻まれて砕ける様にとてもよく似ている。 霧散した傍から新たな炎が生まれて、まだ炎を宿していない木々をも飲み込んでいく。
熱気が美鶴の頬を撫でた。熱いはずのそれは、かすかな温もりを残しただけで溶けるように消えていく。 炎も熱気も、美鶴に仇なすものではない。
(それなのに、なぜ俺は怖いんだろう)
美鶴は呟いた。心の中で呟いたはずなのに、それは炎の中に落ちて呑みこまれた様だった。
気がつけば、美鶴の体は炎を纏っていた。炎を吹き上げる木々と一緒になって、燃えようとしていた。
空を見上げると、そこにミツルの姿がある。黒いローブをひらめかせて、長い杖を握り締めて、地上を見下ろしている。
美鶴は呆然として、ミツルを見上げた。美鶴の体は炎に呑みこまれていくが、熱くはなかった。むしろ、呑みこまれた部分が冷たく凍り、 動かなくなっていくようだ。もう下半身の感覚はない。自分が立っているのか、座っているのかもわからない。
しかし、それでも目はずっとミツルを見つめていた。
ミツルの目もまた、美鶴をじっと見つめていた。
視線が確かに交差する。ミツルは静かに美鶴を見下ろしていた。宝石のような目をしている。硬くて、つるりとしていて、美鶴を、炎を 映して、ちろちろと輝いていた。その顔からはどんな感情も読み取ることは出来ない。
ぞっとした。
彼はなにも思わないのだ。感じないのだ。森を焼き払うことに何の躊躇いもないのだ。
美鶴は自分の考えに、はっとする。そうだ、森を焼いているのは、炎を生み出しているのは彼。
(彼って?)
視点が回転する。
頭上には闇。足元には炎。
宝石のような目をして、杖を握る躊躇いもなく、破壊を広げる炎を見つめているのは。
(俺、じゃないか)
気がついた途端、美鶴の体は炎の中に転落した。




「美鶴!」
揺さぶられて、目が覚めた。
目を開けると、視界いっぱいに見慣れた少年の顔が広がる。
美鶴はその少年を知っていた。美鶴もミツルも、その少年を知っていた。
「亘、」 名前を呼ぶと、緊張が緩んだように亘は笑みを浮かべる。
近づけていた体を離そうとする亘の、美鶴の頭の横にあった手を反射的に掴む。溺れる者がすぐそばのものに縋ろうとするような、 反射的な動作。生存本能。亘は振り払わずに宥めるように美鶴の手を握った。
亘の手は温かかった。美鶴の冷えた手より温度が高くて、けれど熱いほどではない。じんわりと沁みるように、温かかった。
その温もりにやっと落ち着きを取り戻した美鶴は、ゆっくりと周りを見回す。
清潔なベッドに寝かされている。ベッドの周りを区切る淡い緑色のカーテン。カーテンの隙間から机が見える。すこし離れたところにあ る、灰色の、職員室にあるような机。
美鶴の視線に気づいた亘が、ああと頷いて説明した。
「保健室だよ。美鶴、体育中に貧血で倒れたんだ」
「・・・それで、なんでお前がここにいるんだ?」
「宮原が教えてくれたから」
余計なことを、と舌打ちしたくなる。握った手を放せない、今の状態では説得力がないけれど。
亘の手は温かいから、だから放せないのだと、美鶴は自分に言い訳した。
いま、美鶴の体は冷えていて、とても寒くて、だから温かい手を放すことができないのだ。
「今は昼休み。もう少し寝てたほうがいいよ」
亘の空いている手が美鶴の額にかかる前髪をそっと横に流した。
その手は変わらずに温かい。ミツルの、美鶴の消えゆく体を抱いていた、その温もりは変わらない。
ワタルと亘が同じものであるように美鶴とミツルは同じもので、少しだけ違うものだった。
けれどきっと、ずっと一緒にいたんだ。
ミツルは美鶴を殺した。美鶴だけじゃない、ミツルはたくさんの命を殺してきた。
ミツルは美鶴が嫌いで、弱い美鶴が邪魔で、ずっと隠して押し込めていた。
美鶴はミツルが嫌いで、残虐なミツルが許せなくて、ずっと目を逸らして見ない振りをしていた。
だけどもう、認めてもいいのかもしれない。
美鶴はミツルで、ミツルは美鶴だ。きつく結ばれていて切り離せない。
繋ぎとめているのは、この温かい手だ。
この手をずっと握っていようと思った。この手がある限り、美鶴とミツルは二度と離れることはない。美鶴とミツルが殺しあうことも ない。
おそろしいのは、この手を見失ってしまうことだ。
美鶴から離れて、美鶴の手の届かない場所に行ってしまうことだけだ。
握った手が振り払われて、美鶴から去っていってしまうことが一番こわい。
美鶴は弱くなっただろうか。ミツルは誰よりも強かった。美鶴よりも強かった。
けれどそれは力だけのことだ。
美鶴はいまの美鶴が嫌いではない。




亘は静かな寝息をたて始める美鶴の寝顔を見つめていた。顔色はよいとは言えないが、うなされていた先程よりもうんとよくなってき ている。
美鶴の手は亘の手を握ったままで離れる気配はない。
亘は美鶴の手のことをおもった。
長くて細い指。ピアノでも習っていたのだろうか。器用な指先。亘よりも少しだけ大きい手。いつも何かを求めているように冷たい手だ。 亘が触れると、いつも少しだけ戸惑うように震える。
嫌なのかなと慌てて放そうとする、そのタイミングを計ったように握り返してくる。
美鶴の手が冷たいのは、水底できらりと光るような寂しさのせいかもしれない。
流せなかった涙のような、抱えきれない哀しみが詰まっているせいかもしれない。




06/07/31
ミツルと美鶴について考えてみました。
ここで書いた美鶴が語る美鶴は黒ミツルの想像です。
わかりにくいですね;ミツル+美鶴が語る美鶴(黒ミツル)→美鶴なイメージ。
某方の黒ミツル考察に影響を受けて・・・。(香川

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