「行きます、僕」
きつく瞑っていた目をゆっくりと開けて、亘は立ち上がった。
どこに、と青年は問わなかった。静かな目をして亘を見下ろしていた。
亘はその目をまっすぐに見上げる。
「もう二度と、逃げない」
青年はなにかを察しているのだろうか、口元を引き締めて顎を引くように、ひとつ頷い
た。
「自分の望むことをしなさい」
亘に向ける目は、深い色をしていた。
(僕はこの目を知っている)
落ち着きをたたえた、叡智に輝く瞳。
堅い手が亘の両肩に置かれた。視線が同じ高さで交わる。
「もちろん、なにをやってもいいわけじゃない。してはいけないことはわかっている
か?」
答えはすでに、亘の中にあった。
教えてくれたのは二人の大人だ。
一人は黒く燃えるような瞳をした女の人。
一人は深い青の落ち着いた瞳をした男の人。
「己の中の正義を裏切らないこと」
たとえ腕輪がなくても、亘はハイランダーなのだ。
応えるように一度、肩をつかむ手に力がこもる。
その手は変わらずに、強く、大きく、そして温かかった。
+
倒れた自販機まで戻ると、美鶴が運んでくれた公園はすぐ近くにあった。
亘はまっすぐにその公園に向かう。
美鶴はまだこの公園にいるだろう。確信があった。
入り口に立つと、公園の全貌が見渡せた。右手に遊具があり、その向こうにフェンスで囲
まれたグラウンドが見える。左手は空き地のようになっており、木が公園全体を囲むよう
に植えられていた。
空き地の左奥。木の影になったベンチ。ベンチは背中合わせに両側に座れるようになって
いる。
公園を向く側の座席の背もたれから、後頭部が覗いていた。
それが誰かなんて、疑うまでもない。一目見ただけでわかる。
それほどに自分は、あの後姿をずっと追いかけていたのだ。
思えば、亘はいつも美鶴の背中を追っていた気がする。捕まえようとすればするほど、遠ざかっていく背中を。
美鶴はいつでも亘の前を行っていた。待ち受けているものを恐れず、ひたすらに前へ前へと進んでいた。
まるで終わりに向かって加速していくように。
幻界での美鶴は、終わる場所を求めていたのではないだろうか。自分ではもう止まることが出来なかったのではないか。
せきたてられるように足を動かして、すべて願い事のためだと自分に言い聞かせて。
そうせずにはいられないほど、彼は追い詰められていたのだ。
彼に残っているものは、願い事への執着だけだった。それだけが彼を支えていた。
逆に言えば、それがなければ彼は進んでいられなかった。
進むことも戻ることも出来ず、ただうずくまることしかできなかった。
願い事を叶え、欲しいものを取り戻す。失敗し、欲しいものを永遠に失う。
前者は終わりからの始まり。美鶴は今までの自分を終え、新しい世界を手に入れる。
そして後者は、終わりの終わりだ。なにもかもをなくし、なにもかもを諦める。生きていながらにしての終わり。
自分を待ち受けているであろう終わりに向かって、彼は加速していった。
ただ進むことしか、できなかった。
(ミツル、)
ワタルが追いついたとき。それは彼の終わりのときだった。
彼がもう、進まなくていい瞬間だった。
穏やかな顔をしていた。終わりを迎えたミツルからは、切迫感が消えていた。
進むことしか出来なかった彼が、進むことから解放された瞬間だった。
終わりを恐れていたミツルは、終わることで解放されたのだ。
ワタルはなにもできなかった。消えて行くミツルのために祈ることだって、自己満足でしかなかったのだろう。
(ヴェスナ・エスタ・ホリシア)
(再びあいまみえる時まで)
ミツルがその意味を教えてくれた。あのミツルはもういないけれど、もう一人のきみを見つけた。
届かなかった手は、いまならまだ届くだろうか。
美鶴は終わりを待っている。進むことも戻ることもできずに、ただ誰かが終わらせてくれることを待っている。
きみの背中は遠くない。手を伸ばせば触れられる。
この手はきみをつなぎとめることができるだろうか。
(僕は、それを信じる)
ゆっくりと歩き出す。進めば進んだぶんだけ、美鶴の姿は大きくなる。
近づいていけばいくぶんだけ、美鶴の姿が鮮明になる。
陽に透ける色素の薄い髪。細い髪が風に玩ばれて揺れている。
今にも光になって消えてしまいそうだった。
「美鶴」
声をかけると、美鶴はゆっくりと振り返った。ガラス玉のような瞳が亘を捉え、亘を認めると、じょじょに硬さがほどけていく。
その目は変わらず、終わりを迎えることしか見ていない。
「殺しに来たのか?」
美鶴は微笑んだ。亘が殴った目の下が赤く腫れていて、笑みが少し歪んでいる。それなのに、うつくしい笑顔だった。
こんなときでも、美鶴はうつくしいのだった。
覚悟していたはずなのに。その瞬間、肺を素手でつかまれたように息が止まる。
(望むことをしなさい)
胸の中から、語りかける声がする。二つの声が、交互に亘に語りかける。
亘も声に出さずに呟いた。3つの声が重なって、やがて収斂していく。
亘はゆっくりと息を吐き出した。
己の正義に誓ったのだ。もう二度と逃げないと。
「殺して欲しいの、」
亘が問いかけると、美鶴はゆるやかに首を傾けた。当たり前のことを何故聞くのかと言うように。
亘は太ももの脇で拳を握り締める。
勇気が必要だった。口にするのも恐ろしいことを言おうとしている。
勇気は、亘の中にある。それをくれた人たちもまた、亘の中で、そしてこの世界で生きている。
終わりはまだ来ない。世界は続いていく。
「殺してあげてもいいよ」
口にした瞬間、唇が震えた。視界が赤く染まった。それでも、亘はまっすぐに美鶴を見つめ続けた。
美鶴が立ち上がる。ベンチ越しに亘と向かい合う。
丸い目は歓喜に輝いている。
美鶴の力になりたいんだ。そう伝えたとき、亘は美鶴に自分の気持ちを受け入れてもらいたかった。受け入れて、返して欲しかった。
一緒にいることが許されることを、当然だと思っていた。
(俺を殺して)
だから、美鶴の返答にあんなに衝撃を受けたのだ。
考えなしだった。思い出すだけで羞恥に顔が赤く染まりそうだ。
しかし力になりたいと言った、あの言葉は決して嘘ではない。口からのでまかせではない。本当に美鶴の力になりたい
と思ったのだ。美鶴の望みが、亘の望みと食い違うことを考えていなかっただけで。
(でも今は違う)
美鶴がしあわせになるためなら、どんなことだってしてあげたい。
あの言葉を嘘にしてしまわないための覚悟が必要だ。
「約束するよ。美鶴の救いが終わりにしかなくなったときには、僕が美鶴を殺してあげる」
でも、と亘は続けた。
「でもそれは、本当の本当に美鶴がどうしようもなくなってしまったときだけだ」
そう言ってしまったら、すうっと楽になった。
視界の色が元に戻る。風に乱れて頬をこする髪の感触。木々をぬって射し込む陽の光。一心不乱に鳴き続ける蝉の声。
そこにはまだ終わりなんて見えてない。
「美鶴は諦めているのかもしれない。なにもかも諦めて、もう駄目だと思っているのかもしれない」
一歩足を踏み出してベンチに片膝を置く。そうして伸ばした手が、美鶴の腕を掴んだ。
「でも僕はまだ諦めてないんだ」
美鶴は体を引こうとしたけれど、亘は許さなかった。美鶴の腕をぎゅっと掴んで、視線で射抜くように美鶴を見つめた。
美鶴の目が揺れている。ゆらゆらと揺れている。
(ほら、)
(ガラス玉なんかじゃなかっただろ)
美鶴の目は綺麗なビー玉の目だった。
水を、光を映してゆらゆらと揺れる、うつくしいビー玉。かなしみを閉じ込めた泡に光が射していることに、きみは気づいていないのだろ
うか。
「美鶴の力になるよ。美鶴が立ち上がれなくてうずくまっているのなら、僕が引っ張り起こしてあげるよ」
美鶴の顔は無防備だった。それは、初めて見る美鶴の顔だ。
亘は間に合っただろうか。今度こそ、終わりを迎える前の美鶴の手をつかめただろうか。
「美鶴と友達になりたいんだよ。美鶴がすきなんだ」
美鶴の体から、力が抜けた。
腕を引くと簡単によろめいて、亘とは反対側の座席に膝をつく。
背もたれ越しに、亘は美鶴の体を抱きしめた。
両腕で包み込むように。
(やっと、きみを掴まえられた)
「俺は、そんなにおおきなものを受け取れない」
震える声で、囁くような小さい声で、美鶴が言う。
亘は微笑んだ。
「僕は美鶴と一緒にいたいよ。受け取るとか、そういうのはもういいんだ。僕が勝手に美鶴と一緒にいたいだけなんだ」
(だって、いま僕たちは向かい合ってる)
遠い背中を追いかけているのではない。たしかにこの腕の中に美鶴がいる。
だったらこのまま手を繋いで、ゆっくりと前へ進んでいくことは出来ないだろうか。
「僕が美鶴を支えるから。一緒にいるから」
終わりへ向かうのではない。未来へ向かって。
一緒に歩いていくことはできないだろうか。
「わからないよ」
そう言って、美鶴は泣いた。それは美鶴が初めて見せた弱さだった。
「もう、どうすればいいのか・・・」
美鶴はうつむいて、亘の胸に頭を押しつける。亘のTシャツを震える手が掴んでいる。
「なんでおまえは俺をぐちゃぐちゃにするんだ。俺はひとりでいいのに」
(ひとりでいい)
(そう言って、ミツルは消えていった)
亘は美鶴の背をそっと撫でた。
「そうじゃない」
そして首を振る。去りゆくミツルに、あのときの自分は何も言えなかったけれど。
「そうじゃないよ。僕が一人じゃだめなんだよ。美鶴がいないとだめなんだよ」
06/08/07
亘の胸で美鶴が泣く、というのは尊敬している絵描きさんの絵が根本にあります。
この場を借りて、お礼を。ありがとうございます(香川
戻る
|