涙を流す亘を、青年は黙って見つめていた。泣き止むまで、ずっと。
亘は歯を食いしばって、必死に嗚咽を噛み殺していた。
これは悲しくて泣いているのでない。怒りに駆られているのでもない。悔しくて、泣いて いるのだ。
情けない自分が悔しくて泣いているのだ。一番苦い涙。嗚咽を漏らす資格なんてない、自 分のために泣く涙。
この涙を忘れない。
どんなに忘れてしまいたくても、この苦さを忘れてはいけないのだ。
同じことを繰り返そうとしたとき、何度も思い出せるように。もう二度と、同じ過ちを繰 り返さないために。
涙が止まったら終わりにしよう。情けない自分にさよならしよう。

翼をなくした少年(4)

「行きます、僕」
きつく瞑っていた目をゆっくりと開けて、亘は立ち上がった。
どこに、と青年は問わなかった。静かな目をして亘を見下ろしていた。
亘はその目をまっすぐに見上げる。
「もう二度と、逃げない」
青年はなにかを察しているのだろうか、口元を引き締めて顎を引くように、ひとつ頷い た。
「自分の望むことをしなさい」
亘に向ける目は、深い色をしていた。
(僕はこの目を知っている)
落ち着きをたたえた、叡智に輝く瞳。
堅い手が亘の両肩に置かれた。視線が同じ高さで交わる。
「もちろん、なにをやってもいいわけじゃない。してはいけないことはわかっている か?」
答えはすでに、亘の中にあった。
教えてくれたのは二人の大人だ。
一人は黒く燃えるような瞳をした女の人。
一人は深い青の落ち着いた瞳をした男の人。
「己の中の正義を裏切らないこと」
たとえ腕輪がなくても、亘はハイランダーなのだ。
応えるように一度、肩をつかむ手に力がこもる。
その手は変わらずに、強く、大きく、そして温かかった。


 +


倒れた自販機まで戻ると、美鶴が運んでくれた公園はすぐ近くにあった。
亘はまっすぐにその公園に向かう。
美鶴はまだこの公園にいるだろう。確信があった。
入り口に立つと、公園の全貌が見渡せた。右手に遊具があり、その向こうにフェンスで囲 まれたグラウンドが見える。左手は空き地のようになっており、木が公園全体を囲むよう に植えられていた。
空き地の左奥。木の影になったベンチ。ベンチは背中合わせに両側に座れるようになって いる。
公園を向く側の座席の背もたれから、後頭部が覗いていた。
それが誰かなんて、疑うまでもない。一目見ただけでわかる。
それほどに自分は、あの後姿をずっと追いかけていたのだ。
思えば、亘はいつも美鶴の背中を追っていた気がする。捕まえようとすればするほど、遠ざかっていく背中を。
美鶴はいつでも亘の前を行っていた。待ち受けているものを恐れず、ひたすらに前へ前へと進んでいた。
まるで終わりに向かって加速していくように。
幻界での美鶴は、終わる場所を求めていたのではないだろうか。自分ではもう止まることが出来なかったのではないか。
せきたてられるように足を動かして、すべて願い事のためだと自分に言い聞かせて。
そうせずにはいられないほど、彼は追い詰められていたのだ。
彼に残っているものは、願い事への執着だけだった。それだけが彼を支えていた。
逆に言えば、それがなければ彼は進んでいられなかった。
進むことも戻ることも出来ず、ただうずくまることしかできなかった。
願い事を叶え、欲しいものを取り戻す。失敗し、欲しいものを永遠に失う。
前者は終わりからの始まり。美鶴は今までの自分を終え、新しい世界を手に入れる。
そして後者は、終わりの終わりだ。なにもかもをなくし、なにもかもを諦める。生きていながらにしての終わり。
自分を待ち受けているであろう終わりに向かって、彼は加速していった。
ただ進むことしか、できなかった。
(ミツル、)
ワタルが追いついたとき。それは彼の終わりのときだった。
彼がもう、進まなくていい瞬間だった。
穏やかな顔をしていた。終わりを迎えたミツルからは、切迫感が消えていた。
進むことしか出来なかった彼が、進むことから解放された瞬間だった。
終わりを恐れていたミツルは、終わることで解放されたのだ。
ワタルはなにもできなかった。消えて行くミツルのために祈ることだって、自己満足でしかなかったのだろう。
(ヴェスナ・エスタ・ホリシア)
(再びあいまみえる時まで)
ミツルがその意味を教えてくれた。あのミツルはもういないけれど、もう一人のきみを見つけた。
届かなかった手は、いまならまだ届くだろうか。
美鶴は終わりを待っている。進むことも戻ることもできずに、ただ誰かが終わらせてくれることを待っている。
きみの背中は遠くない。手を伸ばせば触れられる。
この手はきみをつなぎとめることができるだろうか。
(僕は、それを信じる)
ゆっくりと歩き出す。進めば進んだぶんだけ、美鶴の姿は大きくなる。
近づいていけばいくぶんだけ、美鶴の姿が鮮明になる。
陽に透ける色素の薄い髪。細い髪が風に玩ばれて揺れている。
今にも光になって消えてしまいそうだった。
「美鶴」
声をかけると、美鶴はゆっくりと振り返った。ガラス玉のような瞳が亘を捉え、亘を認めると、じょじょに硬さがほどけていく。
その目は変わらず、終わりを迎えることしか見ていない。
「殺しに来たのか?」
美鶴は微笑んだ。亘が殴った目の下が赤く腫れていて、笑みが少し歪んでいる。それなのに、うつくしい笑顔だった。
こんなときでも、美鶴はうつくしいのだった。
覚悟していたはずなのに。その瞬間、肺を素手でつかまれたように息が止まる。
(望むことをしなさい)
胸の中から、語りかける声がする。二つの声が、交互に亘に語りかける。
亘も声に出さずに呟いた。3つの声が重なって、やがて収斂していく。
亘はゆっくりと息を吐き出した。
己の正義に誓ったのだ。もう二度と逃げないと。
「殺して欲しいの、」
亘が問いかけると、美鶴はゆるやかに首を傾けた。当たり前のことを何故聞くのかと言うように。
亘は太ももの脇で拳を握り締める。
勇気が必要だった。口にするのも恐ろしいことを言おうとしている。
勇気は、亘の中にある。それをくれた人たちもまた、亘の中で、そしてこの世界で生きている。
終わりはまだ来ない。世界は続いていく。
「殺してあげてもいいよ」
口にした瞬間、唇が震えた。視界が赤く染まった。それでも、亘はまっすぐに美鶴を見つめ続けた。
美鶴が立ち上がる。ベンチ越しに亘と向かい合う。
丸い目は歓喜に輝いている。
美鶴の力になりたいんだ。そう伝えたとき、亘は美鶴に自分の気持ちを受け入れてもらいたかった。受け入れて、返して欲しかった。
一緒にいることが許されることを、当然だと思っていた。
(俺を殺して)
だから、美鶴の返答にあんなに衝撃を受けたのだ。
考えなしだった。思い出すだけで羞恥に顔が赤く染まりそうだ。
しかし力になりたいと言った、あの言葉は決して嘘ではない。口からのでまかせではない。本当に美鶴の力になりたい と思ったのだ。美鶴の望みが、亘の望みと食い違うことを考えていなかっただけで。
(でも今は違う)
美鶴がしあわせになるためなら、どんなことだってしてあげたい。
あの言葉を嘘にしてしまわないための覚悟が必要だ。
「約束するよ。美鶴の救いが終わりにしかなくなったときには、僕が美鶴を殺してあげる」
でも、と亘は続けた。
「でもそれは、本当の本当に美鶴がどうしようもなくなってしまったときだけだ」
そう言ってしまったら、すうっと楽になった。
視界の色が元に戻る。風に乱れて頬をこする髪の感触。木々をぬって射し込む陽の光。一心不乱に鳴き続ける蝉の声。
そこにはまだ終わりなんて見えてない。
「美鶴は諦めているのかもしれない。なにもかも諦めて、もう駄目だと思っているのかもしれない」
一歩足を踏み出してベンチに片膝を置く。そうして伸ばした手が、美鶴の腕を掴んだ。
「でも僕はまだ諦めてないんだ」
美鶴は体を引こうとしたけれど、亘は許さなかった。美鶴の腕をぎゅっと掴んで、視線で射抜くように美鶴を見つめた。
美鶴の目が揺れている。ゆらゆらと揺れている。
(ほら、)
(ガラス玉なんかじゃなかっただろ)
美鶴の目は綺麗なビー玉の目だった。
水を、光を映してゆらゆらと揺れる、うつくしいビー玉。かなしみを閉じ込めた泡に光が射していることに、きみは気づいていないのだろ うか。
「美鶴の力になるよ。美鶴が立ち上がれなくてうずくまっているのなら、僕が引っ張り起こしてあげるよ」
美鶴の顔は無防備だった。それは、初めて見る美鶴の顔だ。
亘は間に合っただろうか。今度こそ、終わりを迎える前の美鶴の手をつかめただろうか。
「美鶴と友達になりたいんだよ。美鶴がすきなんだ」
美鶴の体から、力が抜けた。
腕を引くと簡単によろめいて、亘とは反対側の座席に膝をつく。
背もたれ越しに、亘は美鶴の体を抱きしめた。
両腕で包み込むように。
(やっと、きみを掴まえられた)
「俺は、そんなにおおきなものを受け取れない」
震える声で、囁くような小さい声で、美鶴が言う。
亘は微笑んだ。
「僕は美鶴と一緒にいたいよ。受け取るとか、そういうのはもういいんだ。僕が勝手に美鶴と一緒にいたいだけなんだ」
(だって、いま僕たちは向かい合ってる)
遠い背中を追いかけているのではない。たしかにこの腕の中に美鶴がいる。
だったらこのまま手を繋いで、ゆっくりと前へ進んでいくことは出来ないだろうか。
「僕が美鶴を支えるから。一緒にいるから」
終わりへ向かうのではない。未来へ向かって。
一緒に歩いていくことはできないだろうか。
「わからないよ」
そう言って、美鶴は泣いた。それは美鶴が初めて見せた弱さだった。
「もう、どうすればいいのか・・・」
美鶴はうつむいて、亘の胸に頭を押しつける。亘のTシャツを震える手が掴んでいる。
「なんでおまえは俺をぐちゃぐちゃにするんだ。俺はひとりでいいのに」
(ひとりでいい)
(そう言って、ミツルは消えていった)
亘は美鶴の背をそっと撫でた。
「そうじゃない」
そして首を振る。去りゆくミツルに、あのときの自分は何も言えなかったけれど。
「そうじゃないよ。僕が一人じゃだめなんだよ。美鶴がいないとだめなんだよ」




06/08/07
亘の胸で美鶴が泣く、というのは尊敬している絵描きさんの絵が根本にあります。
この場を借りて、お礼を。ありがとうございます(香川

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