体が自分のものではいないみたいだった。
亘の体に抱きしめられた美鶴の体がぶるぶると震える。
美鶴は歯を食いしばって、涙を流した。震える息が歯の間から漏れる。
目の奥が熱い。熱くて仕方ない。
亘は黙って、美鶴を包み込んでいた。亘の体は熱い。燃えているんじゃないかと思うくらい。美鶴の目の奥と
同じくらいに熱い。
(太陽に抱かれている)
焼き殺されたいと願った太陽は、美鶴を焼きはしなかった。
熱が沁みこんでくるようだ。外側から焼くのではない。美鶴の中に侵入して、深いところを熱している。
凍っていたものが熱されて溶けたように、熱い涙が目から零れて、亘のTシャツに吸い込まれていった。
「美鶴がいないとだめなんだよ」
そっと美鶴の背中に触れて、亘が言う。
いないとだめ、だなんて。
(そんなことがあるだろうか)
だって自分にはもう何も残されていない。全てをなくしてしまった。
何も持たない美鶴を、必要とする誰かがいるなんてことを、信じられるわけがない。
(俺はなにもできないのに)
美鶴の手はなにかを掬いあげることが出来ない。この手はいつも失くすことしかできない。大切なものをとどめ
ていくことすらできないのだ。
大切なものであれば大切であるほど、砂のようにさらさらと指の間を零れ落ちていく。
もう二度と大切なものなんて作らないと決めた。失くすくらいなら、最初から何も持たなければいい。
何も持たないことに慣れれば、持っていないことを悲しまなくなる。それが当たり前になって、つらいことはなくなる。
そうやって、ただ終わりを迎えるために生きてきた。
(なのに、なんで)
たくさんのことを望んでいるわけではないのに。ただ終わりたい、それだけなのに。
(ひとつの願いさえ、叶わない)
もうこれ以上自分を揺らさないでほしい。終わりを与えてくれないのなら近づかないでほしい。亘は美鶴と違いすぎて、美鶴
を強く揺り動かす。忘れていたものを思い出させる。自分の中の空洞を強く意識してしまう。空洞があることも忘れていたのに。
「俺はおまえとは違うんだ・・・っ」
きつく言い放とうとした言葉が、情けなくぐらぐらと揺れた。
美鶴はうまく息が吸えなくて、溺れる人のように途切れ途切れの呼吸を繰り返す。
「美鶴にそばにいてほしいんだ。美鶴がいないとだめなんだ、僕」
「そんなことない・・・おまえは俺と違う・・・!」
誰かに傍にいてほしいなら、違うやつをあたればいい。もうかまわないでほしい。亘が望むようなものなど、美鶴はなにも
持っていないのだから。
放っておいてほしい。いまならまだ忘れられる。今までの生活に戻れる。なにもない自分に絶望しなくてすむ。
この熱を忘れられなくなる前に。早く。
「俺はもうなにもいらない・・・!」
「わからずや!」
亘が怒鳴った。幼い声にまぎれもない怒気がふくまれていた。
(それでいい)
美鶴と亘は結局違うもので、結局分かり合うことはできないのだから。
安堵した瞬間、息が止まるほどに抱きしめられた。
「なにが違うの?」
美鶴の頭を胸に抱え込むように、両腕で抱きしめた亘が問う。
「僕と美鶴の、なにが違うっていうの?」
美鶴は答えようと口を開いたけれど、亘がそれをさせなかった。掠れた声が美鶴の声に覆いかぶさる。
「いいよ、答えなくて。聞きたくない」
「・・・勝手だ」
「だって僕にはわからないもの。その違いは決定的なものなの?僕と美鶴を決定的に分けるものなの?」
美鶴は亘の胸を押して顔を上げようとするが、亘は拒んでさらに腕に力を込めた。
「こんなに近くにいるのに」
亘の声は震えていた。泣きそうに。もう泣いているのかもしれない。
「ぼくが美鶴と違うっていうなら、ぼくは美鶴と一緒になるために変わらなくちゃならない」
(無理だよ)
美鶴は心の中で答える。変わることなんてできない。亘は気づいていないのだ。変わろうとして変わるものじゃない。
これは資質の問題なのだ。生まれつき、決められているものだ。きっと。
与える亘と、受け取れない美鶴。
大切なものを大切にできる亘と、失くすことしかできない美鶴。
「でも変わった僕は、もう美鶴にとって必要じゃないんだ」
予想外の言葉に、美鶴は瞠目した。
体を強張らせたことに気づいたのか、亘はゆっくりと腕の力を抜く。
美鶴は体を離して、何も言えずに亘を見つめた。
「同じ人なんていないんだよ、美鶴」
亘はまっすぐに美鶴を見つめている。
「美鶴はずっと負い目を持ってる。人と違うって、自分だけ違うって思い込んでる」
「思い込みじゃない・・・!」
亘は首を振った。視線は揺らがない。射抜こうとするように美鶴を見つめている。
「美鶴だけが違うんじゃない。みんな、違うんだよ」
亘の目が見る見るうちに潤んで、目のふちでたまった雫がゆらゆらと揺れていた。
美鶴は息をするのも忘れて、その雫を見つめる。
「みんなひとりひとり違うから。だから一緒にいるんだよ」
言い切って、亘は目を瞑った。まつげに弾かれた雫が頬を流れていく。
無意識に美鶴は手を伸ばしていた。
雫に触れる。指先が濡れる。美鶴の爪の先で、残った雫がゆらゆらと光っている。
「何度でも言うよ。美鶴がすきなんだ」
触れた頬は温かかった。亘が喋るたびに振動が伝わる。
不思議だった。自分の手がこんな風に誰かに触れる日が再び来るなんて。
(もうだめかもしれない)
自分を苦しめる熱ではない。心地よい温かさを知ってしまった。
もう戻れない。全てを諦めていた自分には戻れない。また再び、出会うたび別れを恐れる日々が始まる。
亘の頬をなぞるように力なく落ちていった手を、落ちる前に亘が掴まえた。
「やっと掴まえた」
亘が微笑む。涙を流しながら。
美鶴の手を握って、両手で温めるように包み込んだ。
「俺にはなにもできないのに」
止まっていた美鶴の涙も再び溢れ出す。
「俺は誰かを不幸にすることしかできないのに」
みんな、美鶴と関わって不幸になっていった。みんな次々と美鶴のそばから消えていった。
家族はもうみんないなくなってしまった。美鶴を大事にしてくれた優しい叔母も、美鶴と暮らしていくうちにどんどん疲れた顔になっていった。
(どうしてなんだろう)
大切なのに。大切にしたいのに。
(どうして、)
不幸にすることしかできないのだろう。
「笑ってよ」
亘が言った。うつむいてしまった美鶴の顔を下から覗き込むようにして。
その顔は優しく微笑んでいた。
「美鶴が笑うと、僕は幸せになるんだ」
(そんなことがあるんだろうか)
「俺にはできないよ・・・」
(こいつのようには笑えない)
「美鶴が美鶴を信じられないのなら、美鶴のぶんまで僕が信じるよ」
亘はそっと美鶴の手を離して、代わりに美鶴の頬を、包むようにして顔を上げさせる。
「僕を信じて、美鶴」
美鶴は目を閉じた。
しがみつくように、亘の体を抱きしめる。
(きっとずっと信じたかった)
(こんな自分でも何かが出来るんだって、)
「ずっと、信じたかったんだ・・・」
応えるように、亘の腕が背中に回った。
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