うたかた

いやな汗が、首筋を伝った。
ぱたり、ぱたり、ぬぐわないでいると、それはフローリング張りの床に涙が落ちる音を立てて落ちた。うつむいて両手を床についた体勢、つよく握り締めた手に力を籠める。ぎゅ。ぬるり。手にも汗の感触。季節は夏、冷房をつけていないのだからあたりまえだが、汗はじんわりとにじみ続けて止まらない。冷房はおろか灯りすらつけていないのは節約のため、なんてそんな現実的な理由ではなくつける気力すら起こらないから、だ。脆弱な自分に吐き気がする。
夏の夜は、いつだってそうだ。
夜が、近づいてくる足音、崩壊の音にも似たそれが怖くて、怖くてたまらない。カーテンをしめきってもなお漏れ出してくる夏の夜の闇が、怖くて、怖くて。
季節が冬ならばまだいい、夜を覆う灰色の雲は、その闇をあいまいにさせる。季節が春なら、秋なら、まだいい、鮮やかな色の花や木が月に触れてやわらかく、慰めてくれる。
夏の、夜は。
どこまでも透き通った暗い暗い底の見えない、闇。肌を伝う生ぬるい汗のじんわりと、ぬめりとしながらしみこんでいく感触に嫌悪すら抱く。その感触にいやなことばかり、思い出す。
夏が、夜が、怖い。
夏も、夜も、いつだっていやなことの始まり、だから。







じじじじじ・・・・

切れたコードから電気が漏れ出すような音が神社の静寂を際立たせている。
じゅわじゅわ。じじじ。せみの、輪唱。鼓膜を細かく震えさせて、耳がしびれそうだ。
夏の暑さに湿った首を手の甲でぬぐうと、ぬる、と、生暖かい温度が付着した。
夏の夜、の、恐怖。一種トラウマだろうか、夜が怖いのは。一人が、怖いから、闇が怖い。闇は孤独を際立たせる。闇が怖いから、夜が怖い。特に闇の深い夏の夜は。
帰りの遅い叔母を一人部屋で待っていたのだけど、カーテンの隙間から漏れ出す闇が怖くて、怖くて、逃げ出してきた。外なら灯りがあるだろうかと、思った。のだけれど、見当違いだったようでやはり外だって、暗い。当たり前だ、夜なんだから。むしろ量だけなら、外のほうが暗さは多い。部屋の闇のほうが凝縮されていて鋭利だったけれど、茫洋としていたからといってその分量が多いのならあまり変わりはない。現に、呼吸は苦しいままだ。暑さが気管にまとわりつく。風呂場の酸素が薄いのと似ている。
はぁ。溜息を一つ落とし、石段に座る。あたりの暑い温度と比べてそれはあまりに冷たく、心地よい。頬を触れさせたらもっと気持ちいいだろうかと、美鶴はゆるくまげて開いた足の間に両手を挟んだままころん、と横になった。足は石段の一つ下の段についたままだからすこし不自然な格好だけど、頬に冷たい温度が伝わる。心地いい。
目を閉じると、ひゅう、といういやな呼吸音。
に、かぶさって。
たん、たんと、石段を靴でたたく音が聞こえてきた。
「・・・芦川、」
さらに名前を呼ぶ声がかぶさり、それに、す、と、目を開いた。
三谷、だ。
「芦川、何やってんの。こんなとこで、」
夏の音と違って耳にやわらかくなじむその声は、責めるというよりも本当に不思議でならないという声色で、近づいて美鶴が倒れた頭の上の辺りに座った。隣というより、上。上半身から見ると。足から見ると、隣だけれど。
「・・・冷たくて、石段が。」
「うん。」
す、と、亘の手が自然に美鶴の頭までおりて髪をすく。
「暑いから、少し、気持ちいい。」
「・・・ん、そうだね。」
屈んで、横たわった美鶴の肩に額を乗せる。美鶴の色素の薄い細い髪と、亘のまっすぐな黒い髪が混ざり合う。
「それに、石段で片方耳をふさいだらいやな音が少し減るかと思ったんだけど・・・、」
ぼんやり、前を見つめながらつぶやく。
「消えなかった。・・・怖い、ままだ。夜、が、近づいてくる。」
ぎゅ、と自分の身体を自分で抱きしめて、唇をかみ締める。美鶴の華奢な身体が、がたがたとかすかに震える。
まっすぐ見据えた先の、夜に沈んだ町。喧騒はなく、夜の音と色が際立ったそれ。外に出たのはやはり、間違いだったようだ。細く鋭利になっていなくともその闇は深く、深く、どろどろとどこまでも夏の熱に溶けている。
「どうしよう・・・怖い、怖いんだ・・・、」
切実なのに、声に抑揚はない。切実だから、だろうか。切実過ぎて。
目の前に置かれた、亘の手。肩から伝わる、亘の体温。それにすがりつきたくて仕方がないのに、自分で自分を抱きしめた腕をほどくのが怖くて、怖くて、どちらにも動けない。そしてその手の向こうに、暗闇が、夜が迫ってきている。つよく目を閉じる。汗か涙か分からない水分が、許容量を越えて頬を伝う。
「どうしたらいいんだ、俺は。しにたくなるくらい、ここから消えてしまいたくなるくらい、夜が、怖い。」
同じくらい、しぬことも怖いのに。
「・・・芦川、」
ささやくような声と共に、肩の体温が離れた。びく、と美鶴の身体が大きく震える。
「大丈夫だよ。」
そうして、小さな手に身体が起こされ、ぎゅ、と、腕の中に閉じ込められた。頭ごと、身体を抱きこまれる。
「・・・三谷・・・、」
顔を押し付けられているせいで、声がくぐもる。自分のものとさして変わらない小さな手が、あやすように美鶴の背中を撫でた。自分のものより幾分か高い体温が、心地好い。
「大丈夫だよ、芦川。夜はもう、芦川のことを傷つけたりしないよ。」
だってほら、あんなにきれいな月がきみをみてる。
亘はそういうけれど、月なんて見えない。抱きこまれているせいで、月なんか見えない、のに。
うっすら目を開いた先に見えるのはただの暗闇、なのに。
なのにこの暗闇は、怖くない。暖かさすら、感じる。
亘の温度、亘の鼓動、亘のにおい。亘だけの、世界。
決して美鶴を傷つけないと、知っている。
「・・・大丈夫、だよ。」
「三谷、」
胸の前で祈るように握り締めた手をほどいて、亘の背中へと回す。ぎゅ、と、美鶴を抱きしめる腕に力がこめられる。同じくらいの身長で、胸に抱きこまれて。すがりつくような体勢。
こころがどうしようもなく亘にすがりついているということを、あらわしているような。
「大丈夫、だから、ねえ、突然・・・いなくなったりしないで。」
芦川がいなくなると、ぼくはつらいんだ。
ぽろぽろと、言葉を零す。つなぎとめるように。
「お願いだから・・・いなくならないで。ぼくもみんなも、もう、君を傷つけたりしないよ。」
だから、いなくならないで、と。美鶴のそれよりも切実そうな口調で。
亘の腕が一瞬緩んで、また美鶴を抱きしめなおす。今度は同じ高さで、抱きしめる。
美鶴も答えるように、亘の肩に額を寄せて目を閉じた。
「だから・・・いなくならないで、」
やわらかい声、鼓膜を覆うように、ふわり、と。
そうして、覆って、すべての音を聞こえないようにしてくれれば、いいのだけれど。


す、と目を開けて、美鶴が亘の頬に自分のそれを寄せると、どちらのものかもわからない、汗なのか、涙なのかも分からない滴が、ぱたり音を立てて零れた。






06/08/14
アイカさんとのCP交換企画のやつで香川さんからのリクエストのアレ・・・です・・・(おそすぎる(桂木


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