散る、散る

「あ、」
先に気づいたのは亘のほうだった。
美鶴が訝しげに隣を歩く亘に顔を向けると、視線の先で亘は足を止めて空を見上げてい る。
なにかがあるのかと、倣って頭上を仰いだ美鶴の鼻の頭で滴が弾けた。
それを封切りに、続いて数滴が頬や肩の上に降ってくる。
「やっぱり降ってきたね」
午後になって突然暗くなり始めた空が、ついに耐えきれなくなったらしい。もったりとし た暗灰色の雲が、いつの間にか空一面を覆っている。
ぱたぱたと音がして、見る間にアルファルトに水玉が散った。
「走ろう美鶴!」
そう言った亘が、有無を言わせずに美鶴の手首を掴んで走り出す。
「ちょっ…おい!」
「うちのほうが近いから寄っていきなよ!傘貸したげる!」
母さんは夜まで仕事だし、そう言う亘の背できちんと閉じられていない鞄のふたがぱたぱ たと音を立てている。
美鶴はいきなりの駆け出しにもつれそうになる足を必死で前に前にと踏み出した。
ぽつぽつと服に丸い染みをつける程度だった雨が、ある時を境にざあーっと、まさしくバ ケツの水をひっくり返したように激しくなる。
水たまりを踏んでしまったのか、ぴちゃんっと足下で水がはねる音がする。
美鶴の手を引いて走る亘の髪の上で、弾かれた細かい雨粒がきらきらと光っていた。

 +

「ただいま!」
学校指定の鞄から鍵を取り出した亘は玄関を開け、誰もいない部屋に向かってそう叫ぶ。
「お前の母さん、夜まで仕事じゃなかったのか?」
続いて入ってきた美鶴が、濡れた髪をうっとうしげにかきあげて首を傾げた。
亘は玄関に靴を無造作に脱ぎ捨て、濡れた靴下をひっぱりながら美鶴を振り向く。
「だってもう癖なんだよ」
誰に言うわけでもなく、家に帰ると癖で言ってしまうのだと、亘は唇を尖らせた。左手に 脱いだ靴下を持ち、右手でもう片方の靴下をひっぱっている。片足立ちの不安定な状態か ら亘の体がふらりとよろめいて、美鶴は慌てて手を伸ばして支えた。
「わ、ありがと」
「別に」
亘の笑顔から思わず目を逸らし、離した右手を左手できつく掴む。
触れた右手が熱かった。
亘の着ている薄い綿シャツは、しっとりと濡れそぼって体の線を浮き上がらせている。触 れてみたら、その下の肌の熱がダイレクトに美鶴の手に伝わってきた。濡れたシャツが冷 えているからこそ、その熱は驚くほど熱く感じられて。
貼りつくシャツの下の感触を、この手が覚えている。
(俺、ばかだ)
耳が熱くなっているのがわかる。
幸いなことに亘は気づいていないらしい。どこかで聴いたことのある歌を口ずさみながら 靴下を脱ぎ終えると、にこりと美鶴に微笑みかけた。
「タオル持ってくるから、とりあえず靴と靴下脱いで待ってて」
そう言って洗面所にある洗濯機に靴下を放り投げ、奥の部屋に駆けて行く。
その背中を見送ってから、美鶴はそっと詰めていた息を吐き出した。
近頃の自分はなにかがおかしい。 調子が狂う、と言ったほうがいいかもしれない。
時々、平静な自分を保つのが難しくなる。
突然心拍数があがって頬が熱くなり、おまけに息が苦しいなんて、なにかの病気ではなか ろうか。きっと病気だ。病気に違いない。
(だってそうじゃなければ…)
「お待たせ、美鶴!」
ぱたぱたと軽い足音をさせて、亘が戻ってきた。
細長いタオルを一枚、頭の上にかぶせ、もう一枚を手に持っている。
亘は玄関に立ち尽くしたままの美鶴を見て片眉を持ち上げた。
「まだ靴も脱いでないじゃん」
美鶴は物思いを振り切って、亘からタオルを一枚受け取った。
「どうせすぐに帰るから、靴は脱がなくていい」
「えー!ゆっくりしてけばいいのに」
亘は不満そうに頬を膨らませたが、アヤが心配だからと答えると、ならしょうがないよね と言って眉を下げて小さく笑った。
美鶴は少し悪く思って、不器用に笑い返す。
亘は照れたように頭に乗せたタオルの端を掴んで、きゅっと引っ張った。
「美鶴びしょびしょだね」
髪をタオルで拭く美鶴を見て、亘が言った。おまえだって、と美鶴が返すと返事の代わり に手がのびてくる。
亘の手が美鶴の手をタオルからどかして、タオルの上からわしゃわしゃと髪をかき回し た。
「うわっ、やめろって…!」
「ちゃんと拭かないとなかなか乾かないよ」
「髪が絡まるから…!」
「いいから大人しくしろ!」
「うわっばか…!」
しばしの攻防戦は、数分後に美鶴の勝利で幕を下ろした。
二人とも息が上がっていて、肩をせわしなく上下させている。
「…おまえだって、まだ濡れてる」
美鶴はそう言って、亘の濡れた髪をタオルに包み込むようにして丁寧に水気を拭った。
亘は玄関にぺたりと座り込んでいて、美鶴は玄関の段のところに膝立ちになっている。
美鶴を見上げた亘がブラッシングをされている犬のように気持ちよさげに目を細めて、小 さな笑い声をあげた。
「なんだ?」
首を傾げた美鶴に、亘は思い出し笑いだと答える。
「雨のなかで走り終わったあとの美鶴を思い出してたんだ」
「は?」
意味がわからず美鶴は眉をひそめた。
亘は美鶴の目をまっすぐに見つめて答える。
「美鶴の髪に細かい雨粒がいっぱいくっついててさ、宝石みたいにきらきらしてたんだ」
そう言って、照れたような視線を下げる。
「美鶴ってほんとにきれいだよね」
(そんなの、)
(そんなのお前のほうこそ…)
続く言葉はわからない。まだ見つからない。
いや、本当はただ怖いだけなのかもしれない。ずっと前から知ってて、知らないふりをし ていただけだったのかもしれない。
きれい、だなんて。美鶴の考えていることなんて知らないくせに。
美鶴の前髪からぽたりと滴が落ちて、亘は反射的にぎゅっと目をつむった。滴は亘の瞼に 落ちて、小さく弾けた後、涙のように亘の目尻からこめかみへと流れていく。
亘は続けて、目を瞑ったままくしゃみをひとつした。
濡れた服のままだから、体が冷えてしまったのだろう。
そう考えたら、自然に引き寄せていた。腕の中に。
「み、美鶴?」
亘の声がすこし焦っているようだ。美鶴はさらに焦っていた。こんなことするつもりはな かったというのに。
最初は冷たかった体が、触れ合ったところからすぐに熱くなっていく。
「美鶴?」
亘に名前を呼ばれても、美鶴は答えられなかった。
体が冷えて寒かったから、なんて、下手な下手すぎる言い訳だ。
本当はずっとこうしたかった。
触れるのがこわかったのは、離せなくなる予感がしていたから。
「美鶴、」
「…ちょっと黙ってろよ」
まだ、まだ大丈夫だ。まだ離すことができる。
自分はなぜだか、失くしてしまうことにとても臆病で、失くすことを恐れるあまり大切な ものをつくれないほど臆病で。
(まだ、大丈夫)
(…もうすぐ、だめかもしれない)
あともう少し。手離せないほど大切になる前に、自分から手を離してしまおうか。
「美鶴…?」
美鶴は亘を抱きしめて、きつく目をつむった。






06/08/16
甘くしようと頑張ってみました・・・orz(香川
戻る