「ほらっ早くしろよ!」
美鶴にせき立てられ、亘はえいやっと服に手をかけて上に引っ張りあげた。
雨に濡れた服は肌にはりついて、なかなか脱ぎ去ることができない。身をよじりながら少
しずつ取り去って、床にびちゃりと落とされた服を、美鶴が拾い上げて洗濯機に投げ入れ
た。
亘は額に張りつく濡れた前髪をうっとうしげに払いのけて、今日は一日晴れるでしょう、
なんて言っていたお天気キャスターを少しだけ恨んだ。天気予報はあくまで予報、予想な
んだとわかってはいるけれど。
ほら次、と美鶴がせかすので、亘は結局なにも衣類をまとわない状態になってしまう。
別に修学旅行で一緒に風呂に入ったこともあるし(1組と2組で合同だったのだ)、今さら恥
ずかしくはないのだが、美鶴はまだ濡れた服を着たままだという状況が亘を落ち着かなく
させた。修学旅行の時はあった腰のタオルがないのもその原因の一つだろう。男同士だと
いうのに、誰からというわけでもなく隠しだして、亘もそれに倣ったのだ。帰ってからお
母さんに報告したら、みんなお年頃になってきてるのよ、と言っていた。思春期、ってや
つかな。亘にはまだ実感が湧かない。
それはそうと、全裸で洗濯機が置いてある脱衣所に所在なく立ち尽くしていた亘は、気づ
いた美鶴によってそのまま風呂場に押し込まれた。
「風邪ひかないようにちゃんとあったまれよ」
折りたたみ式のドアの隙間から顔を出して亘のお母さんのようなことを言う美鶴は、ま
だ濡れた服のままだ。しっとりとして質量が減ったように見える髪の先から、ぽたぽたと
水滴が落ちて、トレーナーの肩の部分に丸い跡を残している。
「美鶴は入らないの?」
亘がそう問うと、美鶴は少し困ったような顔をして笑った。だから、それで思い出した。
美鶴の体を走る、無数の傷跡を。
修学旅行のとき、あれって虐待ってやつ、と何人かが囁き合っているのを聞いた。みんな
なんとなく触れてはいけないものなのだと敏感に察知して、遠巻きにして出来るだけ見な
いようにしていた。亘も、近づけば美鶴の触れて欲しくない深い場所に触れてしまう気が
して、傍に行くことができなかった。
「一緒に、入ろうよ」
美鶴の目を見て亘が繰り返すと、逡巡するような間を置いてから、ゆっくりと頷いた。
+
「かゆいところはないですかー?」
亘が気取ってそう言うと、美鶴はくすりと笑った。
美鶴の細い髪を丁寧に泡立てている亘を鏡で見て、その真剣な顔に笑い出しそうになる。
頭を洗うだけで、そんなに真剣にならなくてもいいのに。
「ソフトクリーム!」
美鶴の長めの髪を頭頂部で立たせてそんなことを言うから、呆れて吹き出してしまった。
亘も笑って、二人の笑い声が風呂場に反響する。響いた声は奇妙にぶれて、自分の声では
ないようだ。
「そろそろいいかな」
亘がシャワーヘッドを手に取り、美鶴の髪の泡をぬるま湯で流し去った。
迷わずにリンスに手を伸ばし、美鶴の髪にすりこむのが少しおかしい。
椅子に座る役を交代して、今度は美鶴が亘の髪を洗い出す。まっすぐな黒髪は、美鶴ほど
ではないものの予想外に柔らかい。
鏡に映った亘の顔は気持ちよさそうで、まるで体を洗ってもらっている犬のようだ。
「シャンプーは怖くないんだな」
美鶴が言うと、どういうこと、と亘が振り向いて問う。
「シャンプーハットとか使わないとだめなんじゃないかと思ってた」
「…美鶴って僕のことバカにしてるよね」
そう呟いて、ふいと顔を背けてしまう。
「いや、イメージってことで、さ。別に本気で思っていたわけじゃなくて…」
珍しく慌てて美鶴が取り繕うと、亘の不機嫌な顔がすぐに崩れた。
「全然フォローになってないよ」
笑い混じりに言われて、今度は美鶴が眉をひそめる。しかしすぐにゆるんで、二人同時に
吹き出した。
美鶴が亘の髪を洗い流してリンスまで済ませると、今度はスポンジを手にとってボディー
ソープを泡立たせる。充分に泡だった後で、亘の背中を洗い出した。
「なんか偉くなった気分」
亘はそう言って、照れたように笑う。
「前は自分で洗えよ」
美鶴がにやりと笑って意地悪く言うと、亘の顔が真っ赤に染まった。
「わかってる!」
あまりに見事に真っ赤なので、美鶴はおかしくて仕方がない。しかしここで吹き出してし
まっては機嫌を損ねることは明白だったので、必死にこらえる。
美鶴からスポンジを受け取って体の前面や足を洗い終わった亘は、椅子から立ち上がって
代わりに美鶴を座らせた。
傷跡が残る背中に触れられて、反射的に体が強ばる。それに気づかないわけはないだろう
に、亘は黙ってスポンジを滑らせた。
沈黙に耐えられずに、美鶴は口を開く。
「汚いだろ」
切り傷や、丸い火傷や、茶色ぽく変色した痣の残る体。鏡に映った自分の顔は、歪んだ笑
みを浮かべていた。
鏡越しに亘と目が合って、美鶴はびくりと体を揺らす。
亘の目はまっすぐで、一度交わった視線を逸らすことができない。
「美鶴はきれいだよ」
ゆっくりと言い聞かせるように、亘は言った。
「美鶴は、いつでもきれいだ」
絶句した美鶴の背を、亘がスポンジで丁寧にこする。美鶴は何を言っていいのかわからず、
何を考えていたのかもわからなくなって、馬鹿、とただ一言呟いた。
+
二人一緒に湯船につかると浴槽は少し狭かった。溢れたお湯が渦を巻いて排水溝に吸い込
まれていく。
浴槽の淵に腕をかけてそれを見ていた亘は、三谷家よりも少し温度の高いお湯に、すぐに
顔を上気させた。あっという間に体が温まって、熱いくらいになる。出ようとしたら、早
すぎると美鶴に止められた。
「せめて100数えてからにしろ」
と、お母さんのようなことを言う。じゃあ美鶴も数えるんだよと念を押して、ひとーつ、ふ
たーつ、みーっつ、と数え始めた。仕方ないな、というようにため息をついて、美鶴も亘の
声に合わせて数え出す。
100を数えるころには、完全にぼーっとしてしまい、美鶴に腕を引っ張られて湯船からあ
がった。子供のようにタオルに包まれて、洗面台の椅子に座らされる。
美鶴が傍を離れて、用意しておいた替えの服を手に戻って来た。ズボンだけ穿いた上半身
裸の状態でドライヤーを取り出して、亘の髪を乾かし始める。
そのころになってようやく意識がはっきりしてきて、亘は鏡の中の美鶴を見つめた。
細い指が亘の髪を掬い取って、丁寧に乾かしていく。器用で無駄のない手つきはまるで魔
法のようだ。魅入られたように見つめていると、あっという間に終わってしまった。
「風邪ひかないうちに、早く服着ろよ」
美鶴の言葉に頷いて椅子から腰を上げ、美鶴の後ろに回る。綺麗に畳んで重ねられた美鶴
の服を借りて着ると、今度は美鶴が髪を乾かし始めた。
亘の場所から、傷跡が刻まれた美鶴の細い背中が見える。肩甲骨が浮き上がっていて、背
骨の線がはっきりとわかるくらい、今でもこんなに細い背中なのに、
この傷をつけられた頃は、どんなに小さく頼りない背中だっただろう。
なんで自分は、小さい美鶴のそばにいてあげられなかったのだろう。もちろんそれは出会う
前の話で、無理なことだとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。
けれど、できてしまった傷をなかったことにすることはできない。たとえ体の傷が消えても、
美鶴の中にいつまでも傷跡は残っているのだ。
だから、美鶴が自分の傷を負い目のように感じているなら、代わりに亘が愛そうと思う。
傷ついた体を、美鶴が自分で愛せるようになるまで愛していこうと、そう思う。
06/09/09
ほのぼのを目指したらこんな感じに・・・。これってワタミツ・・・?(香川
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