かすみのなかの眠り

「あれ、起きちゃった」
頭上から、そんな声が降ってくる。
目覚めてすぐは、自分の状態が把握できなかった。まだぼんやりとした視界いっぱいに、 見慣れた顔が広がっている。大きくて丸い瞳が、いまは美鶴を見つめてやさしく細められ ていた。
汗ばんだ額に貼りつく髪を、ためらいなく触れた指が取り払う。
まるで熱を計るみたいに、かわいた手のひらが額にかぶさった。美鶴は腕を持ち上げて、亘の手の 上に自分の手を重ねると、感触を確かめるようにそっと握りこむ。
亘はくすりと笑って、空いた方の手で美鶴の髪を撫でた。遠い記憶を呼び覚ますような、 温かい手。
もう失くしたとおもっていたもの。
美鶴をのぞきこむ亘の顔は逆さまで、部屋のなかを照らす明かりをさえぎって、美鶴の顔 に影をつくっている。
そこで初めて、自分が仰向いて寝ころんでいることに気づいた。亘は美鶴の頭の下に自分 の膝を入れ、美鶴を見下ろして微笑んでいる。
「よく眠れた?」
美鶴がぱちりと目を瞬かせると、困ったような笑顔になった。
「なんだか苦しそうに寝てたから、勝手に動かしちゃった。ごめんね」

(手足を胸に引き寄せて、背中を丸めて、シーツに隠れるようにして)
まるでなにかから身を守るように小さくなって、苦しい呼吸を繰り返しながら眠っていた美鶴。

「だから、悪い夢でも見てたのかな、って」
美鶴は目を伏せて、ゆっくりと首を左右に振った。そのたびにぱらぱらとこぼれた髪が、 亘の膝の上で乱れて広がる。
(うそつき)
亘は胸の内で呟いた。
美鶴が目を逸らすのは嘘をつくときだけだ。美鶴はいつも、亘がいたたまれなくなってし まうくらい、まっすぐに見つめてくるのだから。
(でも、聞かない)
真実をふくむ美鶴の口は、決して嘘を吐き出さない。体のなかに隠して、まるで存在しな いような振りをする。
それを言い当ててすくい取って、こんなものが沈んでいたよと目の前に突き出すことは、 亘にはできなかった。それはしてはいけないことのような気がしていたのだけれど、本当 は美鶴のゆがむ顔を見たくなかっただけかもしれなかった。
「美鶴がおそれるようなものは、やって来ないよ」
亘は呟くように言って、美鶴の乱れた髪を手櫛で梳く。
(もう、ひとりで耐えなくてもいいんだよ)
「僕がいるから、安心して眠っていいよ」
(だから、世界のすべてが敵だというように殻に閉じこもって、触れらることを拒むように 背を向けてしまわないで)
美鶴は伏せていた瞼を完全に落として、そっと息を吐き出した。おやすみ、と囁く亘の声 が優しく降り注いで、美鶴を眠りの淵に誘いこむ。暗闇が映るはずの眼裏はほんのりと明 るくて、細かい塵が光を浴びて輝くように、時折ちかちかとはじけるようにまたたいた。
亘の手を握っていた美鶴の手が、額の上からするりと滑り、ことりと小さな音を立てて耳 の横に落ちる。 亘は一旦手を離すと、手のひらが上になり緩く指が曲げられた手を握り 直した。
美鶴の顔はおだやかで、ゆるく微笑んでいる様は人形のようだった。かすかな息の音が聞 こえなければ、生きていないと言われても信じてしまいそうなくらい。
「美鶴」
耳元に口を近づけて囁くと、長い睫が細かく震えた。
美鶴の体は喪失を覚えていて、それは容易にほどけてはくれない。
神様の愛を一身に受けてつくられたような彼が、なぜこんなにも孤独にふるえなければな らなくなってしまったのだろう。うつくしさと引き替えに、幸せを奪われてしまった とでもいうのだろうか。
「それなら、僕の幸せをわけてあげるから」
あまりにも孤独が長く深く、からっぽになってしまった君の体に幸せをそそぎこむ。
時間はかかってしまうかもしれないけれど、いつかあふれだしてしまうくらい。知らず知 らず、笑顔がこぼれてしまうくらいの、幸せを。
(きみを脅かすようなものはなにもない)
「おやすみ、美鶴」

いまはただ、なにもおそれることのない、安らかな眠りをきみに。



06/09/23
美鶴が幼い頃になくしてしまったものを、埋める存在が亘だといいと思います。
お互いにお互いを守りたい、大切にしたいと想いあっている二人、というのが理想なのです(香川

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