「芦川、あのさ、今度…、」
「……、」
「芦川、聞いてるの。」
「………、」
「ねえ、芦川ってば、」
「…………、」
だんっと机を叩きつけて、美鶴は亘を睨んだ。
「煩いんだけど。」
無感情に一言告げると、亘ははっとしたあと一瞬だけ悲しそうな顔を見せて、そしてごめんと言ってわらった。
「芦川は、三谷のこときらいなの。」
五限終了のチャイムが鳴り終わるのと共に、後ろの席に座った宮原にそう問われた。
今日は水曜日だからあと一限ある。たしか次は英語だったはずだ。
「…何、いきなり。」
数学の教科書とノートをまとめ、机にしまいこんでから振り返る。
声は潜められているが教室で聞くって言うことは、亘が教室にいないのだろう。ちらっと亘の席に視線をやると、やはりそこに姿はなかった。
中学一年の五月、もともとの席は名前の順だったから出席番号一番の美鶴と後ろから数えたほうが早い宮原の席は、端と端とまではいかないものの、端と左から二番目の列ほどには離れていたのだが、五月に入って最初の連休明けに行われた中学に入ってはじめての席替えにより前後の席になったのだ。ちなみに宮原が座っているのは絶好の居眠りポイントである窓際の一番後ろで、美鶴はその前の席だ。
「だから、きらいなの。三谷のこと。」
「いや…、」
宮原が話題に出した三谷亘と言うのは小学五年生から学校が一緒の生徒で、勉強はそれなり、運動もそれなり、容姿もそれなりの、全体的に中の上といったところの人好きのするタイプの人間だ。ちなみに席はもともと美鶴がいた席で、宮原から一番とおく、美鶴から二番目にとおい位置だ。チャイムが鳴り終わった時点ですでに亘の姿がなかったのは、おそらく席が扉のすぐ近くだからだ。
「別に…そんなにきらいじゃ、ないと思うけど。」
害のある性格ではないと思うし、見ている限りつかず離れずの付き合いが上手いほうだと思うから。宮原ほどではないものの。たまにしつこいこともあるけれど、それだってどんなに無視しても煩くてかなわない女子たちほどではない。
「そう、」
「うん、変なやつだとは思うけど。」
第一印象が、凄まじかったから。凄まじいというのは言い過ぎかもしれないが、あまりしょっちゅう体験する出会い方ではなかった、あの出会いは。そんな大げさな、と言われるかもしれないが、初対面の人間にいきなり名前を呼ばれ、しかも涙目涙声の涙まじりで、さらにそのあと抱きつかれたとあれば誰だっておどろくだろう。実際、その様子を見ていた亘の友人(小村、と言ったか)と美鶴の妹のアヤは、呆然と立ち尽くしていた。支えきれず倒れこんだ所為で美鶴は立ち尽くせなかったが、立っていたとしたら立ち尽くしていた。確実に。
けれど、印象は濃いけれど、その人好きのする性格ゆえにか頻繁に話しかけてきたり纏わりついてきたりするのが鬱陶しいときもあるけれど、嫌い、というほどではないと思う。
最初のほうはクラスも違うのに何故そんなに構うのかと不思議でしょうがなかったし邪魔だ、と思うことも多かったし実際口に出したりもしたが、慣れてしまったのだろうか、今はそんなに気にならない。鬱陶しいときは鬱陶しいと、言ってしまうけれど。
「じゃあ、すきなの。」
「は、」
宮原は口元に手を当てて、声をちいさくして美鶴にまた質問を投げかけた。突飛に飛躍した潜められた声に、美鶴は瞬きをする。
「だから、すきなのかって。三谷のこと。」
もはや定型文だが、開いた口がふさがらないというのはまさにこのことだろう。
美鶴は長い睫に縁取られた色素の薄い双眸を何度か瞬かせて、宮原をじっと見つめた。
「お前、意味わかって言ってる、」
「俺は知らないことばを知ったかぶりして使う性格じゃないよ。」
「そんなのわかってる…って、そういうことじゃなくて、」
興味津々といったふう、けれど笑みは絶やさない宮原に美鶴は溜め息を落とす。
「なんでそうなる。なんで、おれが三谷のことすきってそういう話になるわけ。」
「だって、芦川の態度見てればね。すきかきらいかどっちかだろうって、思うよ。」
誰だってそう思う、と重ねられ、美鶴は顔を顰めた。
「おれは男で、三谷も男なんだけど。」
「うん、知ってる。学ラン着てるしね。いくら芦川が女顔だからってさすがに間違えないよ。」
「だからそういう意味じゃなくて…、」
「でもさ、男だけど。だって芦川、三谷のことちらちら見てるし、そのわりに話しかけられると邪険にするじゃない。」
恋する乙女か、好きな子をいじめちゃう小学生男子か、もしくは本当にきらいなのか。
「その三択かなって思ったから、じゃあ少ない可能性からつぶしていこうかなって…三分の一のきらいのほうから聞いてみたんだけど。そしたら芦川、違うって言うし。」
だったらすきなのかなって、と肘を立てて組んだ両手の上にあごを乗せる。
美鶴は痛みはじめたこめかみを指先で押さえた。
「意味、わからない。まずおれは三谷のことなんか見てない。」
「自覚ないの。」
今度は宮原が瞬きを繰り返す。
「あるないじゃなくて、見てないから。」
「三谷にだけきつく当たるくせに。」
「誰にだって人当たりはよくない。」
亘や宮原と違って。その自覚はある、他人と馴れ合う気はない。
こっちに来てからいったい幾度芦川くんって冷たい、ということばを聞いただろうか。(そして大抵、そのあとにはでもそこがいいんだけど、と続く。女子の気持ちはわからない、とクラスの男子は皆一様に口を揃えてそう言うが、美鶴にだってわからない。)
「そうだけど。でも、そういうのじゃなくて、鬱陶しいとき、芦川って他の人のこと無視するじゃないか。俺だって無視されるし。」
だけど、と首を傾げる。
廊下の騒然とした空気が教室内に移り始めている。十分間の休み時間の半分が過ぎたから、用を足したり教科書を借りに行ったりしていた生徒が戻り始めたのだろう。
けれど亘の姿は、まだない。
「でも、そういう時三谷にはきつく当たるだろ、だからさ、」
一旦ことばを切って、また繋げる。
「もし…すきでそうなら、三谷にわるいじゃないか。」
「…きらいで、だったら、」
美鶴が問うと、宮原は考えるふうにうーんと唸る。
「…だったら、仕方ないかな。それは俺にどうこうできる問題じゃないし。俺は芦川も亘もともだちだと思ってるから、心苦しくはあるけどね。」
「ふうん。」
どうでもいい話だけれど。だって、すきでもきらいでもない。
がらがらと言う扉を開ける音にちらっと視線をやる。と、ちょうど教室に入ってきた亘の姿が視界に映りこんだ。机の中をがさがさと漁っている。
(…見てるわけじゃない、たまたまだ。)
たまたま目に入った。それだけ。宮原が妙なことを言うから気になっただけで。
ふるふると首を横に振ると、机からノートを取り出した亘がこちらのほうにやってきた。
「宮原、ちょっとここ教えてほしいんだけど…、」
亘は宮原の隣までやってくると、そこで宮原と向かいあっている美鶴に気づいたのかはっとした気まずそうな顔を美鶴に向ける。
(…むしろ、三谷がおれのこときらいなんだと思うけど。)
美鶴と話しているときや美鶴が近くにいるとき、亘はしょっちゅう気まずそうな顔を見せる。きらいでなくとも、少なくともすきではないのだろう。苦手、というか。
「ごめん。芦川と話してた、」
「うん。でも、三谷のことだから。」
「ぼくのこと。」
「そう。」
宮原はにや、とした表情で美鶴のことを一瞥してから、満面の笑みで亘と向き合う。
「芦川が、三谷のことすきなんじゃないかって。」
「おい、宮原、」
「そんなわけないよ、」
美鶴が眉を顰め宮原を咎めようとすると、先回って亘が否定のことばを重ねた。
「そんなわけない。だって、芦川ぼくのこときらいでしょう。」
「…、」
笑顔でそんなことばを向けられて、美鶴はどうしていいかわからずぱちぱちと瞬きを繰り返した。
(おれが…三谷のことをきらい、って、)
「芦川、ぼくのこと怒ってばかりだし。煩いとか、鬱陶しいとかさ。」
穏やかな笑顔で言う亘を、宮原も虚をつかれたような表情で見つめている。
冷や汗が、美鶴のこめかみを伝った。鼓動が逸る。
「だから、」
(きらいなのは、おれのほうじゃなくって…、)
亘は、珍しく饒舌だ。それとも、普段から饒舌だけれど美鶴の前ではそれを出していなかったのか。
「芦川は、ぼくのことすきなわけない。」
(お前が、おれのこときらいなんだろう、三谷。)
「…だよ、」
「え、」
美鶴が唸るように搾り出した声を、宮原がはっとした顔で聞き返す。
「きらいだよ、お前なんか。」
まっすぐ亘を見つめていた視線をふっとそらして吐き捨てる。
「芦川、」
「おれは、お前みたいな暢気なやつ、大きらいだ。」
窘める宮原を無視して、一言一句丁寧にそう告げる。
「…っ、」
亘が息を飲むのが聞こえ、でもそれはまるで幻聴のように一瞬で、次に美鶴が亘に視線を戻した時にはさっきと同じようににこりと微笑んでいた。
「そう…だよね、そうだと思った。」
そして口元を引きつらせながらそう言うと、足早に美鶴から離れ、そのまま教室から出て行く。
美鶴はただそれを無感情に見つめる。
「おい、芦川、」
乱暴に宮原に肩をつかまれ、振り向かされる。
「…追いかけろよ、」
「なんで。」
「なんでって…お前が、」
「きらいなら仕方ないって、言ったのはお前だろ。」
目を逸らさずに言うと、宮原はぐっと詰まった顔をして美鶴の肩を突き放し、立ち上がって亘を追いかける。
「…んで、」
(おれのこときらいなのは、三谷のくせに。)
つかまれた肩が痛く、熱い。自分で自分を抱きしめるように、その痛む肩をつよく握り締める。
(おれは、わるくないだろ、)
(だって、三谷が言ったんじゃないか、おれが三谷のことをきらいなんだろう、って。)
(おれはただ、それを肯定してやっただけで…、だから、)
亘が、美鶴をきらいなのだ。きっと。
(だから…でも、だったらなんで、)
唇が戦慄くのを力を込めて押さえ込もうとするが、震えは止まらず寧ろその勢いを増す。
(…なんで、傷ついた顔をするんだよ…、)
振り返って走り去る瞬間、亘の横顔が傷ついて見えた。
(なんで、おれはそれが苦しいんだ、)
逸る鼓動を抑えるように、両手で体を抱きこむ。
(なんで…、)
その答えを教えてくれる人は、きっと、誰もいない。
06/12/10
あづちたんのお誕生日祝いで、リクエストは「すれ違い。」…なってるでしょうか…!(桂木
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