三谷亘は屈託無く笑う。
あけっぴろげな笑顔を向けて、簡単に美鶴に触れてくる。
そのたびに美鶴は言い表せないような感覚におそわれるのだ。
美鶴にとって、亘は他の誰とも違う存在だった。
最初に出会ったのは、そう、下駄箱だ。駆けて行ったアヤが誰かと
ぶつかって、美鶴はそちらに顔を向けた。
『ごめんね、大丈夫?』
腰をかがめてアヤと目を合わせていた少年。美鶴の視線に気がつ
いた彼がこちらを向く。大きな目が零れ落ちそうなほど見開かれる
。
綺麗な目だな、と思ったことを覚えている。白目が幼い子供のよう
に青みがかっていて、きらきらと輝いていた。中央にいくほど色の
濃くなる黒い瞳が美鶴を映している。瞳の中の美鶴が揺らいだと思
ったら、あっという間に濡れて目尻に玉をつくる。
美鶴はいつの間にか微笑んでいた。
何故微笑んだのかは覚えていない。ただ、何かが胸に詰まって縁か
ら溢れるように、水滴が和紙に染みるように、滲んで零れたものだ
った。
決定的な何かがあったように思えるのに、思い出そうとすればする
ほど、するりと手の中から逃れていく。美鶴の手のなかに柔らかい
感触と温もりだけを残して、空気に溶けるように消えていく。
『・・・・・・・・・』
亘はなにかを言おうとするように何度か口を開閉させた。しかしか
すかな息が漏れるだけで、言葉にならないようだ。何かを押し込め
るように、ぐっと口の端に力を入れて、そして弾けるような笑顔を
浮かべた。今にも零れそうな涙をためて、泣き顔になる寸前の、花
がほころぶような笑顔。
美鶴は思わず、その顔に見惚れた。顔かたちの問題ではない。こん
なに綺麗な笑顔は見たことがなかった。
この少年を、自分はよく知っている気がする。
この少年の、悲しむ顔ばかりを知っている気がする。
動けない美鶴の体に、亘は両腕でしがみつくようにして抱きついた。
反射的に体が揺れて、自分の輪郭がぶれるような感覚が美鶴を襲う。
断片的な映像が、瞬間的に脳裏を滝のように流れて、どこか知らない
場所に落ちていく。掬い取ろうとした手は間に合わない。指の間を
滑り落ちていく。
『一緒に帰ろう・・・!』
どこかで叫び声が聞こえた気がした。
それに呼応するように胸が疼いた。
美鶴の背中に回された手が、肩に押し当てられた額が熱い。熱くて
たまらない。
その瞬間、美鶴の頭のなかには何もなかった。全ての思考が、弾け
て、光って、消えた。
目の前の体をきつく抱きしめた。
閉じた瞼の内側でなにかが崩壊する。輝いて、溶けて、潤んで、雫
となって溢れる。
亘の体は熱かった。温かかった。どこかが痛むようで、痺れるよう
で、震えだしそうなほどに気持ちがよかった。
背筋を白い光のようなものが走って、脳天に突き抜ける。
それは今まで生きてきた中で、何より鮮烈な感覚だった。
光に連れ去られてしまわないように、さらに強く抱きしめる。
ただひとつしかない、かけがえのないものを、手に入れた気がした
んだ。
それからというもの、美鶴は亘に触れるのが怖かった。あの鮮烈な
ものに流されて、自分が自分でなくなってしまいそうで。
あれほど強烈な感覚は始めだけだったのだけれど、それでも触れ合
うたびにそれを思い出す。触れ合う瞬間は、いつもどこかが震える。
そのくせ触れたくて仕方なくて、美鶴は自分を持て余す。
わかっていることはひとつだけあった。
自分はきっと、この存在を失えない。
考えるだけで、足元も見えなくなるから。
06/07/20
亘と美鶴が好きなら一度は書いてみたい映画ラストシーンでした。
蛇足ですが、映画版美鶴考察→+(香川
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