翼をなくした少年(1)

夢を見る。
美しい世界の夢だ。
僕はそこで旅をしている。大柄で気の好い水人族としっかり者でかわいいネ族の女の子、 そして僕の3人で。
僕は何かに必死になっていた。なにか、必死になってやり遂げなくてはならないことが あった。
けれど、ただひとつを追っていくのには、その世界は適さなかった。世界は美しすぎた。 温かすぎた。僕はその世界を大好きになって、その世界で暮らす人々を好きになった。当 たり前のように。
やがて、その世界に危機が訪れた。僕の大好きな人たちが、必死に戦っていた。大切なも のを守るために、必死に。
ああ、思い出した。僕はその世界の女神様に会おうとしていたんだ。女神様に会って願い を叶えてもらおうと、旅をしていたんだ。
運命を変えるために。
けれど、僕は思う。僕は本当にそれでいいのかな。その世界の人々を見て、考えた。彼ら は女神様に運命を変えてもらうことはできない。だから必死に、いま自分ができることを 精一杯やっているのだ。誰かに運命を変えてもらう幸運がすぐそばに転がっているのに、 羨んだりしないんだ。
僕だから、できることがあるんじゃないかな。僕にしかできないことが、あるんじゃない かな。
それを無視して、自分の望みただひとつを追いかけることなんて、できるだろうか。僕の 愛する世界が壊れていくのに。僕の愛する人たちが傷ついていくのに。
そして、その引き金を引いたのは、僕の友達なのだ。

ミツル、

亘は微睡みから目を覚ました。
ふと後ろに目をやると、不規則に揺れる電車の窓から見えるのは、亘の知らない景色だ。 亘はいま、見知らぬ土地に行こうとしている。
芦川美鶴に会うために。



翼をなくした少年


「このあたり、かな」
亘は持っていたメモから顔を上げて、あたりをきょろきょろと見回した。
時刻はそろそろお昼になる。太陽がだんだんと高くなってきて、もう九月も半ばにさしか かるというのに、汗がだらだらと流れてくる。
はあ、と亘はため息をついた。手の中のメモは汗に濡れてくしゃくしゃになってしまっ た。
メモには美鶴の住む家の地図が書かれている。宮原の助けを得て手に入れた、大事なメ モ。

2学期が始まって、亘はもう一度宮原に美鶴の引っ越し先を聞いてみた。彼は前回と同じ ように不思議そうな顔をして、ぱちぱちとまばたきをした。それから亘の顔をじっと見つ める。亘もまっすぐに見つめ返した。
なにか聞かれるだろうか。幻界のことを話しても、信じてはもらえないだろう。けれど亘 には、宮原を納得させられるだけの理由を考えることもできない。
ならば、会いたいと思う気持ちは伝わらないだろうか。会いたいと思うだけじゃ、理由に ならないだろうか。
深い事情とか、そんなものは本当は重要じゃないんだ。ただ会いたい。それだけじゃ、だ めだろうか。
その思いを、思いだけをこめて、亘はまばたきもせずに宮原を見つめる。 美鶴に、会いたいんだ。
宮原は頷いて、他には何も聞かなかった。ただ、独り言のように呟いた。 がんばれよ、と。

しかし、彼は美鶴の引っ越し先を知らなかった。だめか、と途方に暮れる亘を連れて、宮 原は職員室に向かう。まっすぐに2組の担任の机まで歩いていき、言った。
クラスのみんなが芦川がどうしているか心配しているんです。それで代表して何人かで様 子を見に行きたいと思うんですけど、芦川の住所を教えてくれませんか。
担任はあっさりと信じて、美鶴の引っ越し先の住所を教えてくれた。不審がる様子もな い。宮原の人徳がなせる技だろう。
普通の人が「みんなを代表して」と言ったところで、訝しまれて終わる。けれど、宮原 には代表と聞いて、すんなりと信じてさせてしまうようなものがあるのだ。代表としての資質を 備えている。こいつに任せておけば大丈夫だと思わせる。
宮原は担任の書いたメモを亘に手渡し、もう一度言った。
がんばれよ。

亘はその言葉の力強さを思いだし、応えるように大きく頷いた。くしゃくゃになってし まったメモを丁寧に折り畳む。メモは2枚あった。担任に書いてもらったものと、それを 見せて交番で書いてもらった地図。
メモをポケットにしまって、亘はとりあえず自販機を探すことにした。
喉が乾いたのはもちろんだし、それにふらふらする。脱水症状を起こしているのかもしれ ない。
辺りを見渡したがそれらしきものはなく、亘は勇気を出して道行く人に聞いてみることに した。
優しそうなおばさんに当たりをつけて聞いてみると、丁寧に場所を教えてくれた。ついで にメモを取り出して美鶴の家を聞くと、これにもあっさりと答えが返ってくる。
(なんだ、最初から聞いておけばよかった)
拍子抜けだ。
とりあえずの目標を達成し、安堵する。しかし、安堵して次のことを考えようとして、亘 は気づいてしまった。
美鶴は亘のことを覚えているだろうか。美鶴は全部忘れてしまって いるんじゃないか。そして亘に言うのだ。お前なんか知らない、と。
亘は想像してショックを受けた。まっすぐに美鶴の家に向かわず、とりあえず自販機に向 かうことにする。教えてもらった通りに道を曲がり、しばし直進すると自販機はすぐそこ だった。
自販機の前に人がいる。亘と背格好がよく似ていた。同じくらいの年頃の、少年だ。
色素の薄い髪をしているのがわかる。長めの横髪に隠されて、その顔までは見えない。 亘は弾かれたように残りの距離を走り出す。
確信があった。自分が間違えるはずがない。
不安は、彼を見た瞬間に消えてしまった。姿を見たら、ただ会うことしか考えられなく なった。
ずっと会いたかったんだ。どうしているのか、ずっと気にかかっていた。
だんだんと幻界の記憶は薄れていって、まるで夢のようだと思うときさえあるというの に、彼のことは忘れたことがない。
(ミツル、)
「美鶴!」
声に気づいて、彼は振り返った。


「あ、れ…?」
唐突に、目覚めた。目覚めてすぐに、絶望的な気持ちになる。
全部夢だったのだろうか。美鶴に会いに行ったことも、そこで美鶴に会ったことも。 (そんなことって…)
「起きたか?」
声がした。
亘は目を見開いて、動きを止める。夢だったらどうしよう。いま振り向いたら、泡のよう に弾けて消えてしまったらどうしよう。
願うような気持ちで、亘は振り向いた。
そこに、美鶴が立っていた。
なにか問いたげに亘を見ていた。亘はまばたきする間も惜しんで美鶴を見つめた。
美鶴は疲れているようだった。少し痩せた気がする。乾いた目をしていた。その目に、か つてのひたむきさや熱情は見いだせない。
そのことが、亘を苦しめる。
「目の前で倒れるなよ。見捨てるわけにはいかないだろ」
恨みがましい言葉を、どうでもいいことのように言っていた。どうやら美鶴が亘を運んで くれたらしい。
周りを見回すと、どうやらどこかの公園のようだ。亘の体はベンチに寝かされていた。
ベンチは木陰で、頭上で緑の葉がこすれあって、さわさわと鳴っていた。首筋を撫でていく 風が心地よい。
「僕、美鶴に会いに来たんだ」
そう言うと、美鶴はゆるく首を傾げるようにした。
嫌な予感が亘を襲う。心臓を素手でぎゅっと掴まれたみたいだ。縮こまって、震えてい る。
美鶴が口を開く。
ああ、聞いてはいけない。
「お前、誰だ?俺は、」
お前なんか知らない。

がらがらと足下が崩れていく。地面だと信じていたものが崩壊していく。
亘はなにも言えずに愕然として、美鶴を見た。
美鶴も亘を見ている。その目は確かに亘を見ているのに、亘という存在を見てはいないの だ。すべてどうでもいいと、投げやりになっている者の目だ。
(どうして、)
最後に自分のしたことを悔いていると言ったミツル。光となった妹を抱いて、安らいだ顔をしていたミツ ル。亘の腕の中で、光となって消えていったミツル。
幻界に残って、半身となった、ミツル。
では、ここにいるのは誰なんだろう。すべて諦めた顔をして、亘の目の前に立っている少 年は。
(美鶴、だよね)
亘の目からこぼれる涙を、美鶴は無感動に眺めていた。
(美鶴、)
(ミツル、)
ヴェスナ・エスタ・ホリシア。
再びあいまみえる時までと、約束した彼はどこに行ってしまったのだろう。




06/07/27
現世の美鶴のその後を書きたいがために書いた話です。
書いたら書いたで、さらにこの後が気にかかる・・・。むむむ(香川




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