そのとき、世界は息をしていなかった。
すべての音が亘の周りから消えていた。時が止まったように、亘の体はぴくりとも動かな かった。体はすでに亘の意志が通じるものではなく、切り離されたそれはただの物体だっ た。世界のどことも亘は繋がっていなかった。
それは、圧倒的な孤独。

『お前なんて知らない』
こんな言葉を聞くくらいなら、会えない方がよかったのに。

翼をなくした少年(2)

「おい、」
美鶴に声をかけられて、亘は流れていた涙に気づき、指で拭った。美鶴が亘を見ている。
透き通った、ビー玉みたいな目だ。木々の葉の隙間からこぼれるきらめきが映っていて、 それがビー玉の中にとじこめられた泡のようだった。
それはとても綺麗だけれど、亘はその瞳を見つめると、なぜだか悲しくなってきてしま う。
それは人形の目と似ているからかもしれない。はめ込まれたガラス玉。のぞき込むと、の ぞき込む自分の顔が滑稽に歪んで映る。歪んだ周りの景色しか映さない、ただのガラス 玉。
美鶴の目はそれによく似ていた。目はきらめきを宿しているけれど、それは美鶴のきらめ きではなかった。その目には、美鶴の感情が映されることがない。ただ周りの景色が映る だけの、綺麗なガラス玉。
君の目に映る世界は、どのように見えているのだろう。ガラス玉のように歪んでいるだろ うか。
「変なやつだな」
亘が何も言わずにじっと見つめていると、美鶴はそう言って首を傾げた。亘の知っている 美鶴ならば、不機嫌に顔をしかめてみせただろう。けれど今の美鶴の顔にはなんの表情も 浮かんでいなかった。疎ましがっても、面白がってもいない。
美鶴にとってはどうでもいいことなのだ。
「僕は、亘だよ。三谷亘」
「ミタニワタル」
美鶴がゆっくりと復唱した。覚えるため、というよりかは、ただそうしなければいけない というルールを遵守するように。
「それで?」
亘の名前を繰り返した美鶴に変化はなかった。
何か思い出すことを期待していたわけじゃない。期待なんてこれっぽっちもしていない。
そう、思っていたのに。
なのに、こんなに胸が痛む。
(ミツル、)
「また泣くのか」
ひたすらに淡々とした、美鶴の声。
こんな声は知らない。美鶴の声はいつだって、冷たく静かな中に熱いものを秘めていた。
こんな声を美鶴はしない。これは誰なんだ。
混乱する。これは確かに美鶴で、でもミツルでも美鶴でもない。亘の知っている芦川美鶴 ではない。
「なんで美鶴は、そんな死にそうな目をしてるの」
ぽろりと、その言葉は亘の中からこぼれ落ちた。生きていない、人形のような目。
美鶴はかすかに目を見張ったようだった。それは出会って初めて見せた、表情と呼べるも のだ。
そして、美鶴は微笑んだ。綺麗で、透明な笑み。人形のような目に、歪んだ亘の顔が映っ ている。
「俺は死にたいんだよ」
オレハシニタインダヨ。
(死にたい、って)
これは、誰なんだ。
「……っ!」
反射的に手を振りあげていた。平手に変えようと思う間もなく、拳が美鶴の頬骨とあた る。嫌な音がした。
あたった部分がじんじんと熱く痺れる。つかみ合いの喧嘩の経験は数え切れないけれど、 こんなふうに人を殴ったのは初めてだった。
これほど怒りを覚えたのは、生まれて初めてだった。
「美鶴にだけはそんなこと言って欲しくなかった!」
小さい命を取り戻そうと必死だった、君からだけは。奪われ、奪ったからこそ、誰よりも 命の重さを知っていた君からだけは。
「お前は僕の知ってる美鶴じゃない!」
美鶴は反撃してこなかった。変わらない人形の目で、歪んだ亘を映していた。口元がゆっ くりと緩んで、やがて笑みとなる。
「殴りたいのなら殴れよ。それでお前の気がすむのなら」
ここにいるのは、幻界で悔やんでいると言ったあのミツルじゃない。
「お前が俺に誰を重ねているかは知らないけど、残念ながら俺はこういう人間だ」
美鶴は少し肩をすくめてみせた。
「俺にはそれしかできないんだ。俺はだれかの役にたって、それで居場所を手に入れる。 でも俺は存在するだけで罪で、いるだけで人を苛立たせる。しょうがないんだ。黙って殴 られるしか能がない」
「そんな…」
そんなことって。美鶴の口元の笑みはいつの間にか消えていた。
亘を見つめる人形のように整った顔。ガラス玉の瞳。
亘は世界が止まったときのことを思い出した。
うるさい蝉の声も、車のエンジン音も、人々の声も消えた。世界のすべてが亘から切り離 された、あの一瞬。
美鶴の目に映る世界に、美鶴は存在しているのだろうか。美鶴と世界は繋がっていないの だろうか。
君の世界は、息をしていないのだろうか。
まるで罰して欲しいみたいに、暴力を、痛みを望んでいる。それが世界と繋がる手段だと でも言うように。
(でも、僕は美鶴の目をビー玉だと思ったんだ)
人形のガラス玉ではなく、泡をとじこめたビー玉だと。
君は世界でひっそりと息づいている。それを亘は知ってしまった。
泡のなかにはきっと、美鶴の孤独や悲しみが閉じこめられている。
君の泡の中が透けて見える。
(やっぱり君はミツルだ)
すべてを諦めた振りをして、ここにとどまっていた、もう一人の君。
家族を家族に殺され、居場所を失って、新たに手に入れた場所では傷を増やし、それもま た失って。重ねすぎた傷は、瘡蓋ができる時間もなく血を流し続けている。
亘の頬を滴が伝った。後から後からそれは溢れ出て、あっという間に両頬が濡れる。
「同情なんて無駄なもの、なんの役にも立たない」
「僕は、君と友達になりたいんだ」
美鶴の目が初めて、ちゃんと亘を捉えた。
ガラス玉なんかじゃない、君の悲しみにかがやくビー玉。
「美鶴が好きなんだよ。美鶴の力になりたいんだ」
美鶴は笑った。輝くような笑みだった。一番良いことを、一番幸せなことを言われた、そ んな笑顔。
子供のように無邪気で屈託のない顔。
「だったら俺を殺して」
頭の中が真っ白になった。
つかみかかった亘を、美鶴はただ幸せそうに見下ろしていた。
「ずっと待ってた。俺を殺す人」
「ばか!美鶴のばか!美鶴なんて死んじゃえ!」
死んじゃえ。口にしたら、苦しくて死んでしまいそうになった。言われた美鶴は幸せそう で、言った亘は声を殺して涙を流した。
「美鶴なんて一人で死んじゃえばいいんだ!」
ずきずきと痛む。美鶴を殴った拳も、涙を流す目の奥も、ぽっかりと穴が空いたみたいな 胸の真ん中も、どこもかしこも痛くて血を流しているようだった。
「自殺しようとやってみたこともあったけど、無理だった。あのクソ親父と同じだと気づ いたから」
そう言ったときだけ、美鶴の声は苦しげだった。
亘は、はっとして顔をあげたけれど、そのときにはもう隠す気もない恍惚を浮かべてい た。
「早く」
美鶴は亘の右手を両手で包み込むように握った。そして祈るように、その上に額を落と す。
「早く、俺を殺して」
もう生きていたくないのだ、とその声が言っていた。
亘の体を支配したのは、恐怖だ。美鶴に握られている手が熱い。美鶴を殴ったからだけ じゃない。美鶴の手が冷たいぶん、その熱は鮮明だった。燃えているみたいだ。
(この手が、美鶴を殺す)
想像するまでもない。想像することなんてできない。
そんなことには、耐えられない。

美鶴の手は振り払って、亘は逃げるように駆けだした。美鶴が追ってくる気配はなくて、 けれど絡みつく視線はずっと感じていた。
怖くて振り返ることなんて出来なかった。




06/08/03
続く・・・らしいです・・・(香川




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