握った手は熱かった。
自分の手とは異なった温度。自分の冷たいそれとは似ても似つ かないもの。
この手が美鶴を救うのだ。この手だけが、美鶴を救うのだ。
そう意識したら離せなくなった。
両手で大切に包んでから、逃げられないようにぎゅっと握りこ む。
びくりと手の中のものが震えた。美鶴は祈るように、額を押し 付ける。どうか願いを聞いて。これは最後に与えられた幸運な のだろうか。神様なんて信じていないけれど、最後の最後にな ら信じてやってもいい。
両手に再び伝わる、震え。
それは確かに生き物だった。熱く波打つ、生き物。美鶴の手の 中で確かに存在する異物。
確かな熱を持って、美鶴と触れ合っている。
触れ合ったところがちりちりと痛んだ。火傷したみたいな、内 側に侵入してくる痛み。
熱と美鶴の手との境界線は強固で溶け合うことはない。美鶴の 手の冷たさが熱を弱めることはないし、この熱が美鶴の手を温 めることもない。
決して、相入れない。
どちらかがどちらかを滅することでしか終わることない。
これは太陽だ。熱い。眩しい。焦がれてしまう。そういうもの。
この手の中に、太陽がある。
美鶴は太陽に焼かれて死ぬのだ。

翼をなくした少年(3)

必死だった。止まったらいけない。走り続けなければ。
追ってくる足音などしないというのに、体は勝手に全力疾走していた。
びゅうびゅうと耳元で風がうなっている。そのせいで周りの音がかき消され、今聞こえる のは自分の体の中の音だけだった。
弾む息が喉元にひっかかる、耳障りな音。どくんどくんと自己主張する鼓動。
アルファルトを踏みしめる足が熱をもって痛みを訴える。
どこへ向かおうとか、そんなことは考えていなかった。ただ人のいるほうへ走っていく。
それだけ。
見つかってはいけない。隠れなければ。紛れなければ。
だって、そうしなければ、
(美鶴を殺さなくちゃいけない)
ぶるりと背筋が震えた。その瞬間、足がもつれて、亘の体は地面に打ちつけられる。
とっさに両手をついたので上半身の追突は避けられたが、両膝を思い切りぶつけてしまっ た。
「……っ」
喉の奥がひきつれる。痛みにどっと汗が吹きだした。亘の顎や首や髪先から雫を落とし て、ぽたぽたと地面に水玉模様を描く。
痛みにうずくまって、亘は背中を丸めた。
「…っく…」
嗚咽のような声が出る。大声で泣き出してしまいたかった。思い切り泣いたらすっきりす るだろうか。
しかし、涙は一滴もこぼれない。
亘は慎重に体を起こした。手にも膝にも心臓が生まれたように、どくんどくんと波打っ て、その都度鈍い痛みを訴えてくるが、それでも歩けないほどではなさそうだ。
みじめな気分だった。
道行く人が横目で亘を見ながら通り過ぎていく。いつもなら他人に無関心な彼らに怒りを 覚えたりもするのに、いまは無関心がありがたかった。
大丈夫?なんて、聞かれたくない。大丈夫なんかじゃない。でもそれは転んだからとかそ ういうことじゃなくて。
(殺せ、って言われたんだ)
同い年の友達に。冗談なんかじゃない。真剣な口調で、幸せそうに微笑んで。それ以上の 幸せなんて存在しないと、美鶴の顔は語っていた。
それを言ったって、誰も亘の気持ちなんてわかってくれないだろう。言われた人にしかわ からないんだ。
困惑して、大変ね、ってとってつけたように言って。そして内心で声をかけたことを後悔 するくらいなら、ほっといてくれたほうがいい。
周りを見渡すと、知っている道だった。道の先に交番がある。あれは行きに地図を書いて もらった交番だ。駅からすぐ近くの交番。
人のいるほうにと走った結果、駅に着いてしまったようだ。
足をひきずりながら駅に向かって歩いていく。とりあえず駅のトイレで傷口を洗い流さな ければ。
そう考えていると、ひょいと体が宙に浮いた。
亘は驚いて声も出ない。少し開いた口の、歯と歯の間で、ひゅうと息が鳴った。
腰に手が回されていた。誰かが強い力で、小脇に抱え込むようにして亘の体を持ち上げて いる。
なにが起こったかわからずに目を白黒とさせていると、上の方に見える顔が亘を見下ろし て、にやりと親しげな笑みを浮かべた。
それは青年だった。亘の父親世代よりも若いけれど、もう立派な大人と呼べるくらいの。 どこかで見たような気もするが、記憶に靄がかかったように思い出せない。少なくとも親 しい人間でないことは確かだ。
通常の思考がやっと戻ってくる。もしや人さらいかと青くなるが、交番の近くで子供をさ らう人さらいはいないだろう。
青年の足はまっすぐに駅に向かっているようだった。
「痛いか?」
問われて、一瞬なんのことかわからなかった。
「痛い、です」
ああと合点がいって答える。すると、だろうな、と青年は頷いた。
だったら聞かないで欲しいと亘は思う。せっかく驚きで足の痛みを忘れていたのに、青年 の言葉で思い出してしまった。再度自覚した痛みは、さきほどよりも酷いように感じられ る。
「駅に行こうとしてたのか?」
「…トイレで傷を洗おうと思って」
「だったら公園の水道のほうがいい。駅のトイレじゃ洗いにくいだろ」
青年はそう言うと、あっさりと方向転換した。
「いたっ…」
その際に足が揺れて、亘は思わず声を出してしまう。悪い悪い、と答える青年の口調は軽 かった。
公園と言いつつどこかに連れて行かれるという恐怖がなかったわけじゃない。でもなぜ か、この人を疑う気にはなれなかった。なぜだろう。自暴自棄になってるのだろうか。
青年に抱かれたまま大人しくしていると、やがて小さい公園が見えてきた。青年は迷わず にそこに向かい、亘をベンチに座らせた。
亘が見ていると、青年は水道に向かい、すぐに濡らしたティッシュを持って亘のもとに 帰ってくる。
ベンチの前に膝を突いて、亘のはいていたサンダルを脱がすと、その足を自身の膝の上に 乗せた。
亘の両足は軽く折り曲げられた状態になる。
「痛いぞ」
そう言いおいて、青年は亘の膝をティッシュで拭った。容赦なく。
痛かったが、亘は歯を食いしばって耐えた。ここまで運んでもらったうえに傷口を洗って もらって悲鳴を上げたんじゃ、あまりにも情けない。
両目をぎゅっとつむっていると、時間が経つのがやけに遅く感じる。
「もういいぞ」
そう言われたとき、亘は疲れはてていた。全力疾走してた足は怪我の痛みを抜かしても、 つっぱっていて棒のような有様だった。喉がからからに乾いている。目をつむったまま脱 力していると、青年の足音が遠ざかっていった。それでも動けずにぐったりしていると、 しばらくして頬に堅いものが押し当てらる。亘は思わず飛び上がった。冷たさがキーンと 頬に凍みる。
目を開けると、青年の笑顔が飛び込んできた。
凛々しい顔立ちをしているのに、笑うとまるで子供のようだ。
「やるよ」
渡された缶ジュースはありがたくいただくことにする。
ごくごくと勢いこんで流し込む亘の隣に、青年は腰掛けた。
自分も缶を持っている。コーヒーだ。ただしミルク入り。なんとなく大人の男の人はブ ラックコーヒーを飲んでいると思っていた。青年は背が高くて、全体的な印象が細身のわ りにがっしりとした体をしていて、そのぶんミルクコーヒーとの取り合わせが意外でおか しい感じだった。
亘が思わず吹き出すと、どういう仕組みなのだろう。どうしても流れなかった涙がぽろり とこぼれ落ちた。
慌てる亘の頭に、大きな手がぽんとかぶさる。
「えらかったな」
亘はうつむいて、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。視界がぼやけるのは、目になにかごみが 入ったからに違いない。
「なんで僕にこんなにしてくれるんですか、」
聞くと、青年は亘の髪をくしゃくしゃと撫でて答えた。
「おまえがちゃんと自分で立ち上がったからだよ」
ぱた、と音がして、亘の太股の上で雫がはぜた。
ジュースを飲んだからだ。だから水分が溢れてるだけなんだ。
我ながら苦しい言い訳だった。
「おまえは強い子だ」
力強い言葉。
亘の目から次々と雫がこぼれて、足を濡らしていく。
強い子。誰のことだろう。
「強くなんて、ない…」
(だって、だって僕は…)
「逃げてきたんだ」
情けなかった。自分が情けなくて仕方なかった。
あんな状態の美鶴を置いて、逃げてしまったんだ。
美鶴の力になりたいだなんて、なんで言えたんだろう。覚悟がぜんぜん足りていなかっ た。
せっかく捕まえた美鶴の手を、自ら振り切ってしまったんだ。
あの手の冷たさを覚えている。
冷たい手が温まるまで、握っていてあげなくちゃいけなかったのに。




06/08/06
あまり進みませんでした;あと3、4話くらい・・・?
美鶴の出番が少なくてすみません・・・(香川





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